読書

HOME | 音楽 | 美術 | 映画 | 読書 | 写真 | 自転車 | 日記 | リンク | プロフィル

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」 (1880年)
今、「カラマーゾフの兄弟」がベストセラー並みに読まれているらしい。
私も闘病を見舞ってくれた職場の後輩が、この新訳版を送ってくれたので、読み始めている。

この小説を初めて読んだのは93年だから15年前になる。

テーマは多岐にわたるが、私が最も感銘深くとらえたのは、「宗教と信仰」についてだった。

このテーマについては、主に二男のイワンと三男のアリョーシャが中心となっているが、宗教に対する懐疑を突き詰めることで、自己破壊していくイワン、対照的に信仰を純化することを通して、宗教の意味を知るアリョーシャ。

人間にとって、重要なのは、宗教なのか、信仰なのか――。この極めて重要な課題が二人の兄弟の対話を通して、さまざま展開されるわけだ。

とりわけ有名で、かつこの小説のハイライトとも呼ぶべきシーンは大審問官の章にあり、私もここには圧倒的感銘を受けた。

大審問官は、突然、目の前に現れたキリストに相対し、「宗教」か「信仰」かの選択を自問する。キリストから接吻された大審問官は、閉ざされた心を「信仰」によって開こうとしかけるものの、その“弱い”心を振り切り、「宗教」を選ぶ。そして、キリストを立ち去らせる。

このシーンに触れるたびに、私は心を揺り動かされる。

「宗教と信仰」は人間にとって、生きるうえで、最も重要であり、同時に解き明かせぬ難問でもあることを、この小説が語ってくれている。

「宗教」はうさん臭いもの、「信仰」は年寄りがするもの、と言われる時代に「カラマーゾフの兄弟」が読まれていることは、何を意味するのか。

果たして、「宗教」と「信仰」について真正面から向き合いたい、という人が読者にどれだけいるかは知るよしもないが、私は、そこに気がつき、自ら問いかける人が一人でも多くいてほしいと望みたいのである。

それが、ドフトエフスキーがこの小説を書いた出世の本懐であると、私は思うがゆえに。
   cover01.jpg

Copyright (C) 2005- fugue.jp All Rights Reserved.