自己表現――エンターテイメントと自己満足の狭間で

ひよこみるくさんの[エントリー]に思うところあり、TBさせていただきます。

自己表現がエンターテイメントになりうるかどうか――これはエンターテイメントのプロ、アマを問わず、この社会に身を置いている以上は、極めて重要なテーマだと思う。

人は一人では生きられない。かつてジャングル生活を生き抜いた小野田さんや横井さんは完璧に一人で生ききった奇跡の例だが、ほとんどの人は、たとえ引きこもりの人であっても、他人との接触ゼロではこの世の中を生きていくことは不可能だ。

となると、どうしても、いかに人と接していくか、ということを好むと好まざるにかかわらず、考え、判断し、行動していかなければならないことになる。

その意味で、私は、生きること自体が自己表現であり、エンターテイメントであるべきだと思うのだ。ブログに文章や写真をアップする、人前でスピーチする、などの明らかに語りかける対象を意識するような場ではない、日常――たとえば、買い物、隣近所とのあいさつ――に至るまで、すべてが自己表現であり、エンターテイメントといえなくもない。ハレとケの考えでいえば、エンターテイメントを要するのはハレの場においてだけではない。ケにおいてもエンターテイメントを心がけるべきだと。

「常にエンターテイメントを演じてたら、素の自分をいつ取り戻すんじゃない!」という声が聞こえてきそうだ。

しかし、そう感じてしまうのは、エンターテイメント=自分ではない自分を演じること――と定義づけられているからではないだろうか。

私のエンターテイメントの定義は違う。エンターテイメント=自分の素=他人を喜ばせること――なのである。

これが自然となるように、努力するのである。そこに意味を見い出していくのである。

これについても誤解を招く可能性があるので、補足しておこう。

エンターテイメント=自分の素=他人を喜ばせること――そんなの単なる他人への迎合じゃないのか、という声も聞こえきそうだ。

しかし、これについても私の考えではそうではないと思う。つまりは、自分は自分、徹して自分を磨く――これは当然のこと。その磨いた末に表に出てくるもの(表情、言葉、文章、歌、等々の自己表現すべて……)が、他人に受け入れられやすいものなのかどうかを意識すること、少しでも他人を喜ばせることになるのだろうか、ということを考えて、自己を磨いていくこと――は決して不可能なことでも、無意味なことでもない。むしろ、自分を輝かせ、他人をも喜ばせる→輝かせるという、一石二鳥、一挙両得の一つの理想的な生き方ではないかと思うのだ。

それでは、かくいう自分がどれだけ、日常生活を自他ともにエンターテイメントできているのか、と問われればかなり心もとない。ブログのエントリーを見渡しても、生来のあまのじゃく的性格から、他人がいかにも喜びそうなものはほとんど並んでないのが実態だ。

しかし…再三の「しかし」で恐縮なのだが…私が言うエンターテイメントは、他人への迎合とも違う。自己表現を磨く、輝かせることに修練し、自他ともに納得できる水準の表現に至ることができたと思うことができ、それを一たびアウトプットしたならば、後は、他人が喜ぶか否かまでは左右できない。当たり前のことだ。

人にはそれぞれ好みというものがあり、興味の対象や角度もすべて違う。従って、発信したからには、自分の自己表現に何らかの引っ掛かりを感じ、ピックアップし、面白い、楽しい、考えさせられる、など、何らかの形で認めてくれる人の出現をひたすら待つほかはない。

自分がここまで自己表現力を高めているのに、だれも関心を示そうとしてくれないと嘆いたところで仕方ない。それは、多くの人が関心を呼ぶ話題を取り上げてないということにすぎないのだから。

私は私的日記を中学2年生のころからつけ始めたので、途中、かなりの中断はあったものの、都合30年近く日記をつけていることになる。この私的日記は、だれの目にも触れることがないという安心感から、まさに書き殴り状態である。だれに理解してもらおう、なんて努力はかけらも感じられない。当然のことだろう。自己満足そのものの世界だ。

しかし、このブログ日記はそういうわけにはいかない。一日に確実に50から60人の人たちが、一瞥をくれるだけの人から最後まで読んでくれる人まで、それはさまざまであろうが、、私の公開日記に目を通してもらうわけだから。

たとえ、内容は薄かったとしても、何かかしらの伝える意味をそこにもたせなければならないと思う。
内容も吟味する、言葉遣いも慎重にならざるをえない、だれかが傷つくような表現は使ってないか、事実関係に間違いはないか――それなりの細心の注意が必要となる。これらがつまりは、エンターテイメントの精神そのものなのであろう。

これが大事なんだと思う。エンターテイメントの語感から来る、面白い、楽しい、という範疇にまで至る(そこは才能によるべしであろう)ことはできなかったとしても、少なくとも読んでくれた人が、「そっか、このことを言いたくて、この文章を書いたんだな」と納得してもらえることが、自己表現としてのエンターテイメントの最低要件であり、十分条件なのだろうと思う。

日時: 2004年08月31日 17:06 | パーマリンク

生きたがる生命

NHKスペシャルが、『地球大進化』という番組をシリーズで放映している。

地球46億年の歴史において、生命はいかなる進化を遂げてきたかについて、環境変動を軸にたどっていくという内容だ。

・40億年前――巨大隕石との衝突による「全海洋蒸発事変」。つまり、海が干上がってしまった。

・22億年前と6億年前――「全球凍結」。地球全体が氷で閉ざされてしまった。

・2億5000万年前――スーパープルームによる史上最大級の火山噴火とそれに伴う地球温暖化、低酸素化により、95%の生命が絶滅。

と、第4集までは以下のような生命を絶滅の淵に追い込んだ事件について分かりやすく解説している。

ここまで見てきた感想――

生命とはなんと生きたがりなのだろう。

地球上から、水が一滴もなくなる、氷に閉ざされる、酸素が薄くなるなど、生命にとってあまりに過酷な状況が容赦なく襲いかかる。それにもかかわらず、40億年前に原始生物として現れた生命は、一度も途切れることなく、命をながらえ、現在に至るまで生き延び続けているのだ。

なぜ? なんのために?

「死ぬなんてことを考えちゃいけない。生きるんだ、生き抜くことが大事なんだ」と私たちは当たり前のように思うが、まさにこの「死より生を」というプログラムは、私たちの祖先である40億年前に誕生した原始生物から備わっていたものだということを改めて認識させられる。

しかも、進化についても、大型化し、陸にあがり、肺をもち、子宮をもち、手をもったという過程の一つひとつが、地球に課せられた“試練”によってもたらされたものだったということにも驚いた。

もし、地球が何の変化もない、一定の環境を保った星だったら、今に至るまでアメーバ-のような生物がうごめくだけの天体だったという。

改めて思う。なぜ、なんのために生命は生きようとするのか――。

映画「2001年宇宙の旅」は、そこにモノリスの存在を想像してみたわけだが、モノリスが神や究極の意志の存在を示すのかどうか別として、この番組を通して感じることは、目的こそわからないが、なぜか生命は執念をもって生きたがる。
HALによって船外に放り出されたボウマン船長も、宇宙ヘルメットなしでディスカバリー号に戻ることを命令させたのは、彼に本能的にプログラムされた「生きたい」という欲求にほかならない。
宇宙自体にそうした「生きたい」というプログラムが溶け込んでいると考えることは決して不自然なことではなくなる。

小学生だったか、中学時代だったか定かではないが、都筑卓司による『マクスウェルの悪魔』に夢中だった時期があった。

宇宙という存在は基本的には、エントロピーを増大させる、つまり無秩序に向かう傾向をもっている。しかし、宇宙には、目に見えないマクスウェルの悪魔がいて、エントロピー増大の法則に逆らって、原子や分子の移動を操作し、熱を生み出し、物質を作り出し、果てには生命さえも編み出してしまった、と。

衝撃的だった。それまで、当たり前だと思っていたこの世界、物質、そして生命が何かのある力によって形成されてきたことを認識したことは。同時に、自分という無意識のうちに形成されたきた存在を初めて認識できたのは、その時だったかもしれない。

マクスウェルの悪魔の正体は何なのか。

それは自分にとって今に至る大きな謎であり、関心事なのである。

そんな謎解きの一つのヒントをこの番組『地球大進化』は示してくれた気がする。

『地球大進化』、あと2回放送するそうです。次回は9月25日。

日時: 2004年08月28日 17:05 | パーマリンク

『文学界』2004年9月号を眺めて思ったこと

『文学界』2004年9月号に名を連ねていた作家らの中で目を引いたのは、村上春樹、片山恭一、モブ・ノリオの3人だった。

村上春樹は、『レイモンド・力ーヴァー全集を翻訳して』と題した村上へのロングインタビュー。

片山恭一は、『世界の中心からイルカたちへ』と題し、サブタイトルに「生と死の断絶をめぐって」と付けられた論文。

モブ・ノリオは、今年、『介護入門』」で芥川賞を受賞した新人の作家だが、彼の受賞後、第1作となる『ダウナー大学』。

『文学界』を手にとったのは、図書館で、それらすべての作品を読了するにはあまりに時間がなかったので、ざっと眺めたに過ぎない。だから、それぞれのインタビューや作品についてきちんとした考え方を持てているわけではないのだが、それでも感じるところはあった。

片山恭一、モブ・ノリオについてはいわゆる“時の人”である。今、彼らが何を考え、文壇の中でどう生き(ようとし)ているのかには、いささか興味を感じた。

とりわけ村上春樹については、ブログで書き始めたことがあるだけに、村上がレイモンド・力ーヴァーやフィッツジェラルドなどアメリカの作家陣への思い入れについてはどのようなものか知りたいと思った。これについては、もう一度きちんと読んだ上で、別エントリーで触れることにしたい。

ここで触れたいのは、モブ・ノリオについて。

モブ・ノリオの芥川賞受賞作の『介護入門』は、先月号の文藝春秋で読んだ。読んだといっても、これも眺めたに近い。読みやすそうなところだけを拾い読みしたという方が正しいかも。

この文章に接して多くの人が思うところだろうが、とにかく読みづらい文章が延々と続く…という印象を受ける。改行は極めて少なく、ラップ調、呼び掛け調のテキストがこれでもか、これでもかと叩きつけられる。繰り返し登場する「YO、朋輩(ニガー)」という間投句がその象徴だ。

賞の選考に当たった審査員の評も目を通したが、評価は真っ二つに分かれていたようだ。つまり、モブが目指す新しいテキストのスタイルの登場を歓迎する向きと、それが伝統的な日本語の破壊的な行為ではないかと否定的に見る向きと。

内容はここではさておく。内容に踏み込むまで、全く読み込めていないので、なんともいえない。

しかし、作品から受ける全体の印象としては、私的には「これは、受け入れられない……」と感じさせるものだった。

言うまでもなく、文章というものはその内容だけが問われるものではないだろう。文体はもちろん、形式の用い方次第で、中身を読まずとも、「あぁ、美しい文章だ」「うーん、なんか落ち着かない感じが伝わってくる文章だな」などといった印象は、その文章が発する相貌とでも言ったらいいのか、表情、顔から伝わってくるものだ。

そういう意味で、『介護入門』から受けた印象は、その穏やかな表題が連想するものとは対照的に、まさに意味のあるようなないような刺激的な言葉の羅列が目を脳を刺激し、疲れを感じてしまう。内容を汲み取りながら、慎重に読もうとする努力も2ページが限界。あとは、まさに眺めることしかできない。

辛抱が足りないと言われればそれまでだが、正直、私は驚きだった。ここまで読者に苦労を強いる作品でも賞に選ばれるのだなぁと。

それで、今回の『ダウナー大学』だ。

私としては、この受賞後、第1作が楽しみだった。あの文体で認めれたモブ・ノリオがどんな実質的作家デビューを図るのか。

『ダウナー大学』は、『介護入門』を上回るものだった。表現にカタカナが増え、その意味するところをひらがなや漢字に翻訳する作業が一つ加えられた。ますます読むのに困難を感じた。

これでわかった気がした。モブ・ノリオは既存の作品に挑戦している。新しい表現の地平を開こうとしている。その意欲と企図がこの作品から伝わってきた。

現在のポップスの流れの中に、かつてなかったラップという表現が次第に受け入れられ、市民権を獲得したように、文学という領域においても、新しい表現スタイルの波が押し寄せている。それを業界自身が認めつつあるということを実感した。

私には読みきれないと思う文章も、きっとスラスラと、私が夏目漱石を読むような感覚で読んでしまう人たちがもう出てきているのかもしれない。

「とどまることのない変化があるがゆえに、文化は豊穣さを保ち続ける」ことは確かだ、間違いない。

しかし……

めちゃくちゃ読みづらい文章に半ば圧倒され、唖然としながらも、複雑な思いが自分の頭の中を堂々巡りしていた。

日時: 2004年08月27日 17:03 | パーマリンク