柴田民子ピアノリサイタル

きのうは久しぶりに音楽会へ。

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柴田民子ピアノリサイタル
於:東京オペラシティ、リサイタルホール

<プログラム>
モーツァルト:ピアノソナタ イ短調 K.310
ベートーヴェン:ピアノソナタ 第31番 変イ長調 Op.110
ドビュッシー:映像 第1集
          - 水の反映
          - ラモーを讃えて
          - 運動
ドビュッシー:練習曲集より
          - 装飾音のために
          - 組み合わされたアルペジオのために
ドビュッシー:喜びの島

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柴田さんのピアノリサイタルを聴くのは2009年09月26日以来、ちょうど4年ぶりとなる。

前回のプログラムは前半にモーツァルトピアノソナタK333、ベートーヴェンピアノソナタ30番、後半にメンデルスゾーンの無言歌などだったが、今回も前半にモーツァルトとベートーヴェンのソナタ、後半はメンデルスゾーンに代わってドビュッシーの作品をそろえていた。

柴田さんというピアニストは不思議な人だと思う。

というのは、音楽への追求以外にはほとんど関心がないというか、いわゆるパフォーマンス的要素は一切ない。

ステージへの出入りも、いかにも不器用そうな挙動なので、聴衆はやや不安を抱いたりもしてしまいそうなのだ。

ところが、イスをセッティングして、呼吸を整え、曲に入った瞬間、彼女は化けてしまう。

音楽に没入する彼女は先ほどの出入りのおどおど感が嘘のように、強烈なオーラを放つ。

どうしてなのか。

モーツァルト、ベートーヴェン、ドビュッシーらの難曲に臆せず堂々と挑む柴田さんの姿を感じながら、私は思った。

彼女は音を奏でているのだけではない、モーツァルトなど偉大な音楽家の魂と対話をしているのだと。

魂との対話などというと、宗教的な何かを連想させてしまうが、つまるところ、芸術の本質はそこにこそあると、私はかねてより感じてきた。

単に物理的な音を奏でるのであれば、今やコンピューターのプログラムにより、いとも簡単にできてしまうようになった。

しかし、そこに音楽の魂は存在しない。

存在できようがない。

音楽に魂を注ぎ込むことができるのは、魂の在りかを知り、それを追求できる人間だけだからである。

さらに言えば、作曲家の魂と対話をするという極めて高度な精神性を可能とするのは決してだれもが到達可能な領域とはいえない。

ましてや、コンピューターがこれから先、どんなに進化しようが、その認識すら不可能に違いない。

柴田さんの演奏は、そんなことを想起させ、想像させる稀有な体験であると言っていい。

偉大な音楽家の魂との対話は、大変な精神力と体力を要するに違いない。

ゆえにすべての演目を終えた柴田さんは、おそらくへとへとで、立っているのがやっとだったであろう。

そんな疲れの中にも、拍手にこたえる柴田さんが見せた一瞬の安堵の表情が私に無上の癒しを与えてくれた気がした。

音楽が持つ不思議で、かつ人間にとって不可欠な力をというものを改めて感じることのできたリサイタルだった。