無二の存在に真剣に向き合えとのメッセージに感銘。石井洋二郎教養学部長式辞を読んで

現代の風潮を喝破

東京大学の卒業式における石井洋二郎教養学部長の式辞が素晴らしいとネットニュースで取り上げられていました。

平成26年度 教養学部学位記伝達式 式辞(石井学長が退官されたことにより、リンクのURLがしばらく誤ったままでいたようです。訂正しました。2017年3月29日)

ネットに氾濫する情報を無批判に鵜呑みにすることなく、自分の目で、耳で認識したことを大切にせよ、という主旨のスピーチは、とても感銘深いものがあります。

現代の風潮を喝破するかのごとき言説に、まさにわが意を得たりの感がありました。

私のような者が言うのはおこがましいが、さすがとしか言いようがありません。

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人真似を嫌った夏目漱石

石井学部長の言を読むと、かつて同じキャンパスで教鞭をとっていた夏目漱石のポリシーに相通ずるものがあると感じました。

夏目漱石は、人真似を極端に嫌った人だといいます。

安易な人真似に走ったわが子を衆人環視の中、容赦なく殴りつけたというエピソードがご子息自身によって語られていますが、当時からいわゆるコピペを忌み嫌っていたという心情は今に至っても、心に刻むべきなのではないでしょうか。

つまり漱石は自分という無二の存在に真剣に向き合うことなく、流行や人気に漂流するように影響されるさまを心底嫌ったのです。

その意味で、石井学部長が述べた「善意のコピペや無自覚なリツイートは時として、悪意の虚偽よりも人を迷わせます」という現代の世相の指摘は、漱石も納得するに違いありません。

ただ、考えてみるに、二十歳ほどの人生の経験が浅い人にとっては、ややハードルが高すぎるといえるでしょう。

大事なことは、その高いと感じるハードルを超えて、満足して終わってしまう人生なのか、さらに高いハードルを設定し、挑戦し続ける人生かで、その深さと充実度は大きく変わっていくのだろうと思うのです。

そのことを、安易な伝承が繰り返されることで、いつの間にか事実とは異なる意味合いに転化してしまった大河内総長の「痩せたソクラテス」エピソードからも読み取ることができます。

二重三重の意味で、よく練られた式辞だと深く感心します。

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自分の力で勝負を挑め

私自身の卒業後からの来し方を振り返るに、まさに挑戦と挫折、そしてまた挑戦の繰り返しだったように思います。

あまり自分というものを美化してはいけないと思いますが、自分自身を一番いとおしく思えるのは自分であって、それは家族であったとしても、その愛の総量にはよほどの懸隔があるはずです。

そう、よく他人に自分のことなどわからないという言葉が恨み節のように使われることが多いですが、これは真理だと思います。

自分以上に自分のことを知っている人間など、この世にいない。

身体や病気などについては別ですが。

だからこそ、他人の借り物やふんどしで勝負したり、安易に自分のことのように装ったりする愚かさ、悲しさを石井学部長を指摘したかったのでしょう。

「自分のことは自分だけの力で勝負を挑め」、そんなすさまじい気迫が、この式辞の全編にみなぎっているように感じるのです。

リアルタイムで、この話を聴くことができた学生たちは本当に幸せだと思います。

一生の宝になることでしょう。

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「考えさせてくれる」人になるために

石井学部長は最後に、ニーチェの『ツァラトゥストゥラ』からの引用で締めくくっていますが、ちょうど私が今、『ツァラトゥストゥラ』を読んでいる最中だったので、余計、親近感を覚えたのかもしれません。

ちなみに、石井学部長が引かれた箇所はまだ読んでいませんでした。

『ツァラトゥストゥラ』は上下にわたり、それなりの長さですが、引用箇所がいつ出てくるか、楽しみにしながら、読書を進めたいと思います。

そういえば、そんな「考えさせてくれる」人が、周りになかなかいなくなっているように思えてなりません。

そんなことを嘆く暇があったら、自分自身がそうした「考えさせてくれる」人になる努力を日々重ねていこうと決意させてくれたようにも思うのです。

私は同大の卒業生ではないですが、石井学部長がこの春で退官されることに、「大変長らく、ありがとうございました」と申し上げたい気持ちです。