入院最後の日に医科研病院讃

入院11日目。

きょうお昼に退院となる。

少し時間ができたので、今回の入院を振り返り、総括してみたい。

移植からちょうど10年の節目の入院となった今回、さまざまな教訓と意義を感じさせるものとなった。

何より、感謝したいのが、お世話になった医科研病院だ。

医科研病院は私にとって、命の恩人であり、守り手であり、この病院なくして今の自分はないと言っても言い過ぎではない。

今回も、血液疾患の再発といった内容の病気でなかったにもかかわらず、受け入れてくれ、手厚い治療を受けることができた。

引っくり返って、近くの総合病院に救急車で運ばれるものの、深刻な事態ではないと、30分ほどで病院を追い出された時は絶望に近い状態だったが、そんな窮地の私を救ってくれたのが、医科研病院だった。

これまで、MDSという病気になって以来、さまざまな病院にかかってきたが、医師も看護師などスタッフも、ほぼ一様に木で鼻をくくったような対応がほとんどの中で、この医科研病院だけが、人間味のあるぬくもりを感じさせる唯一の病院なのだ。

ここまで絶賛すると勘ぐられることもあるかもしれない。

しかし、私の正直な思いを偽ることはできない。

ただ、医科研病院も万能ではない。

一長一短の短の部分もある。

それは診療科が極端に少ないこと。

血液内科と外科以外はほとんどが非常勤の医師だったりで、今回のように、耳鼻咽喉科はどこそこにと病院を替えて診てもらわなければならない。

そこは総合病院ではないデメリットの部分。

しかし、ポイントはここにある。

つまり、医科研病院は総合病院ではなく、患者が少ないがゆえの患者に近い存在でいられるのである。

中でも、とりわけ、主治医のT先生の存在が大きい。

T先生には10年前の移植時から、一貫して見守ってくださった、文字通り、命の恩人なのである。

退院の日に思うことは、ただ感謝感謝のみなのである。

足を向けては決して眠ることはできない医科研病院。できればもう入院はしたくないが、これからも通い続けることは間違いないだろう
足を向けては決して眠ることはできない医科研病院。できればもう入院はしたくないが、これからも通い続けることは間違いないだろう

一日一日が死へのカウントダウン

入院10日目。

いよいよ、あす退院となる。

今回の入院はいろいろな意味で、今後10年を生き抜いていくための準備期間となる貴重な体験だった。

来年からの透析導入は免れないにしても、それ以外の、例えば脳、心臓、循環器など、これまで比較的ノーマークだった個所に光を当てて調べていただいたことは極めて大きな収穫だったといえよう。

しかも、MRIに出た動脈解離の疑いのおかげで、今後のより厳格な血圧管理の必要性を感じたことも大きい。

10年目の節目の入院の意義を深く深く感じ入らざるをえない。

そう思うにつけ、11月後半からの風邪引き2回、嘔吐、そして救急車へとつながり、この入院に導いたことを思うと、不思議な必然と思えてならない。

生には限界があり、だれもが一律に死を迎える。

その時期が人によってまちまちであるだけで。

私も当然ながら、いつか死を迎える。

一日一日が死へのカウントダウンであることも事実。

ゆえにその一日一日をいかに充実したものにしていくかが問われる。

写真と本文は関係ありませんが、退院して最も食べたいもの。それはつまり大むらの親子丼
写真と本文は関係ありませんが、退院して最も食べたいもの。それはつまり大むらの親子丼

死んで骨になれば日記も同時に死ぬ

退院の日程も決まり、入院生活も残すところあと2日になった。

今回の入院は11日間、比較的に短く済んだ。

前庭神経炎という一過性の病であったことが軽く済んだ最大の理由。

ひとまずは安心というところ。

今回、持ち込んだ電子機器は、iPhone6と充電池、充電用ケーブル、ボイスレコーダー、ヘッドホンと極めてシンプルなものだったが、過不足なく10日を過ごすことができたように思う。

10年前の入院時はパソコン、Wi-Fi、携帯電話にさまざまな周辺機器を必要とし、やたら荷物がかさばった記憶がある。

今は小さなバッグに入れてあまりあるくらいだ。
スマホでほとんどのことができてしまう。
10年前は想像できなかった。
隔世の感が強い。

しかも大きいのは電話がかけ放題になったこと。
以前は時間を気にしいしいだったが、今は気にすることもない。
むしろ、パケットの方が制限があるので、節約しているところも以前と変わったところか。

今はデータ量4GBの契約なので、入院が長ければ、超過はやむをえないと思われたが、モニターしながらの使用で、どうやら収まりそう。

さらに、最大の違いのポイントは、当時愛用していた知子の情報からEvernoteへと劇的に変換されたことにある。

これまで、何度もこのブログで触れてきたように、私は1995年、ウィンドウズがまだ3.1だった時代、パソコン使い始めの頃からの知子の情報の愛用者だった。

というより、知子の情報を使いたいがためにワープロを捨て、パソコンに鞍替えをしたという経緯がある。

その知子の情報がパソコンだけで使っている間は不自由はなかったのだが、時代はやがて、クラウド&スマホに移って、いよいよ知子の情報に限界が見えてきた。

しばらくはというスマホでテキストを扱うことができるiPhoneアプリのPlaintextで辛うじてつないだ。

そして、3年前、とうとうEvernoteに着地することができたという次第。

整理すると、ソニーのワープロ→知子の情報→Plaintext→Evernoteと4世代にわたったことになる。

この間、1991年から続く日記は連綿と変換されながら、生き残っているというわけだ。

自分で言うのもなんだけれど、執念というほかない。

きのうから漱石のこころを読み返しているが、人口に膾炙した作品ならば、今は病院にいながらにして、手にし、読むこともできよう。

しかし、日記という極めてパーソナルな記述はだれも持っていない。

当たり前だけど。

だからこそ、自分のものを自分で執念を持って管理し続けるほかないのだ。

私と同じ誕生日のアンネ・フランクの日記はまさに人口に膾炙した作品だけれど、それは例外中の例外。

日記は後世のだれにも読まれないことが前提であるがゆえに貴いのである。

この日記のおかげで、自分の人生、どれだけ救われたことか、数知れない。

死んで骨になれば、日記も同時に死ぬ。

その潔さがいいのである。

このブログも日記をコツコツと書いていったことで、外向けに変換することで発信できているわけだし。

入院時の電子機器の話題から、いつの間にか日記論のようなものになってしまったが、自分の人生の核をなすものとして、日記の存在は欠くべからざるものなのだ。

現在、7400日超となった日記をどこまで伸ばすことができるのか。

それが人生の最大の課題の一つでもあるのだ。
 

写真と本文は関係ありません
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