血圧低下と脱水が招いたシャント閉塞

人工透析・にほんブログ村へ

人工透析14回目。

シャント再建手術の成功のおかげで、平常の透析が可能になったことで、ほっとひと息ついているところ。

最初のシャント造成手術からわずか23日でシャントの閉塞を招いてしまったのは、いくつかの要因が重なったことによる。

一つは血圧の急激な低下、もう一つは脱水、さらに赤血球の多さが加わったことにより、血栓ができ、血管を詰まらせたのではないか、というのが医師の診立てだ。

それにしても、シャントの音がしない、血が流れないという事態には、正直動揺した。

こんなにも早く、通常の透析ができなくなり、動脈穿刺などで対応しなければならないようになるとは予想外だった。

ただ、今回はなるべくしてなったシャント閉塞ということも間違いない。

というのは、初めて作ったシャントが手術直後に血栓で詰まり、再手術を強いられたり、術後のシャント音が極めて弱かったりと、先行き不安の大きいスタートとなっていたゆえに。

その意味では、代償は小さくなかったとはいえ、今後の長い透析生活を送っていくうえで重要な教訓を得ることになったと実感する。

自分で管理できることとしては、血圧と水分コントロール。

これを徹して厳しく行っていく。

シャントという透析患者にとって、極めて重要な--ある意味臓器--を守る姿勢を学ぶことができたと思う。

透析生活が始まってまだ1か月。

経験者に聞くと、慣れるまでには1年は最低かかるなどの話を聞くにつけ、初心者中の初心者であることを自覚せざるを得ないが、だれにもそうした時期があったのだと自分に言い含めて、進んでいくほかない。

頑張ろうと思う。

人工透析・にほんブログ村へ

動脈穿刺による透析は、風邪をひいて熱を出してしまったこともあり、個室で行われた。もう二度と入りたくないものだ
動脈穿刺による透析は、風邪をひいて熱を出してしまったこともあり、個室で行われた。もう二度と入りたくないものだ

髪の毛がなくなってよかったと思う点

人工透析・にほんブログ村へ

透析ライフがスタートして、きょうで9回目の透析となる。

シャント作成直後の透析開始とあって、シャントが未発達という課題はあるも、透析自体はほぼトラブルもなく、粛々と進めることができていることには感謝したい。

初日には7回も刺されてしまった穿刺も、ここのところ一発成功続きで、このことも順調さの象徴なのかななどと思っている。

先週の水曜日には、シャント手術の傷から、待望の抜糸もされ、2週間ぶりに、湯船にどっぷりと浸かることができた。

やはり、日本人にとって湯船はなくてならないものだろう。

透析を行った日は湯船禁止だけれど、シャワーはOKとのことなので、穿刺跡の2か所に防水パッドを貼って、お湯がかからないようにして入ることにしている。

この防水が意外と高くて、1枚当たり70円もするので、一日に2枚使うので140円、かける12回となり、ひと月当たり1680円出費となる。

さらに、私は右足のGVHDの炎症が残っているため、ガーゼ20円、コットン10円、テープ10円の計40円が、30日分でひと月当たり1200円かかっている。

合わせて2880円、年間で34560円になることを考えると、決して小さくない出費になることがわかる。

ともあれ、生きていくからにはそれなりのコストがかかるのは当然のことだし、第一、透析にかかる費用のほとんどが補助によって賄われているということは、毎回の透析で忘れずにいたいと思っている。

ありがたいことで、感謝に絶えない。

*

シャワーといえば、病気になる前は職場に出る前の朝シャンを日課としていた時代があった。

私はくせ毛なので、寝起きの髪はとっちらかってしまい、やわい整髪料などではとても歯がたたない頑固な寝ぐせは悩みのタネだった。

それで、いやおうなしに朝シャンをせざるをえなかったのだけれど、病気後というものの、その習慣も一切なくなった。

というのは、寝ぐせで立つはずの髪の毛がなくなってしまったから。

完全にないわけでもないが、以前のフサフサして、多すぎることに悩んでいたのが、まるで嘘のようにどこかへ消えてしまった。

もちろん、遺伝的要素、加齢など病気以外の要因もあるけれど、ともあれ、なくなってしまったっことは否定のしようのない事実だ。

さらにいうならば髪の毛があったころは毎月一回、髪の毛を染めなければならなかった。

30代から驚くほどの若白髪であったため。

その義務からも解放された今は、むしろ文字通りすっきりした気分だ。

歳を重ねていくということは、年々、月々、日々にできないことが多くなっていくことを意味する。

ある意味、悲しいことだけれど、そのことを受け入れつつ、補いつつ、いかに残された人生を充実させていくかが、老いに向き合っていくということなのかなと思ったりする。

あと何年生きられるのかということは神のみぞ知るということだけれど、長かれ短けれ、悔いなく生きたいものだ。

人工透析・にほんブログ村へ

古典を味わう者の特典を享受する通勤2時間

夏目漱石全作品の通読に挑戦を開始して、約半年になる。

「吾輩は猫である」からスタートして、「倫敦塔」「坊っちゃん」「草枕」「虞美人草」「それから」「満韓ところどころ」などを読み終わったところで、全体のちょうど折り返しまで来たので、少しインターバルを入れようと、ゲーテの「ファウスト」を読んでみた。

「ファウスト」は、だれもが思うところかもしれないが、なかなか手ごわい作品だ。

もちろん、自分の学のなさがその主たる要因なのだろうが、内容の9割以上は、理解不能と言ってよく、字面をただ眺めるだけで、意味をとることを放棄する時間帯が長く続いたりする。

何度読んでも、その状態は一向に変わらない。

ただ、今回は自分なりに一歩進んだ読み方はできたように思う。

というのは、意味をとらえようと思うことをやめたおかげで、森鴎外による翻訳された日本語が、絵画のように見え始めたことだ。

絵画に見え始めたことで、それは紙芝居になり、やがて映画のシーンも頭に浮かびあがっていくようになって。

すると、それなりの面白みを感じるようになってくる。

とりわけ、私が尊敬する映画監督、イングマール・ベルイマンが「ファウスト」を撮ったら、どんな画になるのだろうと想像しながら読み進めることが楽しい。

さらに、ベルイマンは、このシーンでどんな音楽を使っただろうかと考えると、楽しさも倍増する。

ちなみに、ベルイマンは「ファニーとアレクサンデル」では、シューマンの弦楽五重奏曲、同じシューマンの歌曲、ヴィヴァルディのマンドリン協奏曲などがさりげなく使われているが、映画館で初めて見た当時は、既存のクラシック曲だとは全く気付かず、オリジナル曲と思い込んでいた節があったが、後々、たまたまシューマンやヴィヴァルディの作品を聞き流している時に、突然、映画中の挿入曲が流れて、飛び上がるほどに驚いた、という記憶がある。

「ファウスト」からいつの間にか話題がそれてしまったけれど、やはり後世に残り続ける名作というものは、いろいろな意味で、不思議な影響を投げかけ続けるものなのだなとつくづく感じる。

そう思うにつけ、Kindleで買った「ファウスト」は100円、夏目漱石全作品は300円で売られていることが、信じがたいほどの恩恵だと思う。

著作権が切れた作品なので、しかもほぼボランティアベースで編集されたものであるがゆえの廉価なのだろうが、ありがたい限りだ。

これは、いわゆる古典を味わう者の、特典というべきものなのかもしれない。

通勤の往復2時間、この特典を大いに味わう時間としていきたい。

2011年に購入したベルイマンの「ファニーとアレクサンデル」完全版。手に入った時のうれしさといったらなかった
2011年に購入したベルイマンの「ファニーとアレクサンデル」完全版。手に入った時のうれしさといったらなかった