「おもひでぽろぽろ」カテゴリーアーカイブ

ハンドルを捨て、土を選んだ父の後半生は満足のいくものだった

きのう9月8日は父の1周忌だった。

享年87歳。

腸閉塞で入院し、検査をしたところ、大腸がんが肝臓、肺、食道に転移していて、既に末期状態だった。

最期を看取ったのは同居していた姉で、苦しむことなく、安らかに息を引き取った。

大往生だったと思う。

知らせを受けて、すぐに実家にかけつけ、父に対面したが、半眼半口の相はうっすらと微笑みをたたえており、満足な人生だったと噛みしめているかのようだった。

父は新潟の農家の三男坊として生まれ、豊三と名付けられた。

長兄は出征し、次兄は本家で育てられていたので、農家を継ぐのは自分だと自覚を深めていた矢先、本家から次兄が戻ってきてしまったため、跡取りは次兄になり、父は食い扶持を減らすために集団就職で上京を余儀なくされた。

尋常小学校しか出ておらず、まさに裸一貫だった父は、「クルマの免許を取るというほか、何もなかった」と、同じく集団就職した弟とともに、自転車免許を取得し、ダンプの運転手としてがむしゃらに働いたという。

やがて、東京オリンピックなど、クルマの需要が一気に増えた東京で、父は路線バスの運転手、ハイヤーの運転手と運転するクルマは変われど、運転の仕事一筋に60歳の定年を全うした。

嘱託をと、会社からは慰留されたらしいが、きっぱりと断り、晴耕雨読の隠居生活に入る。

それから27年、クルマで片道1時間半をかけて菜園別荘に週の半分通っては泊まり込んで、野菜の世話をするのが楽しみだった。

現役でいるころから、父は「本当は新潟で農家を継ぎたかったんだ」と、酒を飲むたびに話していたが、ハンドルを握るよりも、よっぽど土をいじっていることが父に合っていたのだろう。

家を建て、二人の子どもを育てあげ、悠々自適の半自給自足生活は、満足のいくものだったに違いない。

そんな父が歩んだ人生を思うにつけ、果たして自分は満足しながら死んでいくことができるのだろうかと自問自答したりする。

私は44歳で死にかけ、55歳で人工透析を始めてと、がんが見つかるまで元気そのものだった父とはやや違う病弱な生き方を強いられているから、果たして父が生きた87歳まで生きられるとは到底思えない。

だから、いつ命を落としてもいいように(なるべく引き延ばしたいが)、一日一日を、一瞬一瞬をおろそかにせず、生きていきたいと思う。

父が大切にしていた農園にいたとんぼ。かなり接近して撮ったが、なぜかびくともしなかった
父が大切にしていた農園にいたとんぼ。かなり接近して撮ったが、なぜかびくともしなかった

お金にまつわる幼いころのほろ苦い思い出3題

きのうの笑点には大喜利前のゲストとして、アンガールズが出演していた。

ベンチに置いてあった財布を見つけた山根君が手に取りカバンにしまうが、その場面を田中君がちょうど目撃し、「俺の財布を今、盗んだろう」と問い詰めるというシチュエーションからコントはスタートする。

山根君はすぐに盗んだことを認め、許しを乞い、田中君も許し、約束をしていたバドミントンを始めるのだが、山根君は容赦なくシャトルを田中君の足元に打ち込み、ポイントをとったことを喜ぶ。

一方の田中君の中には、言いしれない憎悪が渦巻く……「盗人のくせに」と。

という流れで、長年の友情にひびがはいりかけてしまうというのがコントのテーマだったのだが、この展開を見ていて、はるか昔、子どものころに味わったお金にまつわる苦い思い出がよみがえってきた。

私が通っていた小学校の近くに文房具屋さんがあった。

小学3年生の時のこと、バドミントンの羽を買いに文房具屋さんでお金を支払おうとしたところ、5円足りない。

店のおばさんは、「足りない分は今度来た時でいいよ」と。

私は礼を言い、店を後にする。

休みを挟んだのか、3、4日ほど文房具屋さんに返しに行くタイミングが逸したことで、ずるずると日にちが経ってしまった。

日が経つごとに返しに行きにくくなる。

その店には以来、近づくこともできなくなってしまい、自分にとってはどんどん忌まわしい(自分が犯した罪にもかかわらず)存在になってしまったのだ。

数年後、その店はたたまれてしまった。

とうとう、自分はその5円を返すじまいで終わってしまった。

申し訳ない限りだ。

5、6歳のころだったと記憶する。

家を出たところの道に10円玉が落ちていた。

「10円玉見っけ」と私は、無意識のうちに足で踏み付ける。

ところが、である。

近くにいた小学生だったか、中学生だったかの存在に気づく。

彼らは私の不審な動きに目を止め、「その足を動かして」と命令する。

私はとぼける。

しかし、彼らは私の行動をつぶさに見ていたようで、私の脚をぐいとつかみ、足裏に隠されていた10円玉を拾い上げ、私を嘲笑うように去っていった。

*

幼稚園の運動会の徒競走で3位以内に入れば、サンダーバード2号を買ってもらうという約束で、2位に入賞。

約束通り、600円をもらって、おもちゃ屋へと走る。

迷わずにサンダーバード2号を手に取り、もう片方の手に握りしめていた600円を店主に渡し、いそいそと立ち去ろうとするも、「ボク、100円足りないよ」。

走る間に途中でどこかに落としたのに違いない。

慌てて、来た道をつぶさに見回すが、ない。

夜になっても捜索は続き、ドブ板まで外すも見つからず。

結局、サンダーバード2号は自分にとって、幻と化した。

*

3つのエピソードの合計金額115円。

今となっては、ペットボトル1本買えない額だけれど、幼い自分にとっては、とてつもなく大きなお金だったに違いない。

お金というものは、記憶に定着して離れない特別な力があるものなのかもしれない。

現在使っている財布。昔の115円の重みは今もなお忘れない。不思議なものだ
現在使っている財布。昔の115円の重みは今もなお忘れない。不思議なものだ

「冷たい父」エピソードで謝り続けて24年。きょうは娘が生まれた日

きょう7月11日は娘の24回目の誕生日。

まだまだ幼いと思っていたけれど、24歳は世間から見れば立派な大人だ。

事実、社会人として、仕事もしているし、お給料ももらっている身。

その分、自分が歳をとったのだということを改めて実感する。

娘が生まれたのは1992年7月11日の明け方、埼玉県の小川赤十字病院だった。

私はその日、近所に住む友人と夜更け遅くまで話し込んでしまい、家に戻って眠りに着いた途端に携帯電話が鳴り、お義母さんから、「生まれたよ」と知らせを受けた。

寝ぼけながら、「そうですか、ありがとうございます……」と答えた私は、そのまま、ふとんに倒れ込み、爆睡してしまった。

目覚めたのはすっかり日が高くなった11時過ぎで、慌ててクルマを飛ばして、妻の実家近くの病院に向かった。

6時間以上のロス。

赤い皺だらけの猿のような娘を抱いて病室にいた妻は、明らかに不機嫌そうだった。

それはそうだろう。

平身低頭、二人に謝った。

これは以来、「冷たい父」エピソードとして、繰りかえし繰り返し、さまざまな場面で妻から語られることになる。

自業自得ゆえ、こればかりは頭を掻いて小さくなるほかない。

ところが、きょうはその形勢逆転の好機がやってきた。

きょうの朝、私が妻に「ケーキ買ってこようか」と聞く。

妻は、「きょうはポイントのたまらない日だから、いいよ」と。

「誕生日なのに?」と私。

妻「あー、忘れてた! 産みの苦しみを忘れるなんて……」

私「まずいよ」

わずかではあるけれども、「冷たい父」としてやられっ放しだった体勢を立て直すことができたのではないか。

結局、お祝いとして、やや高級な和牛のすき焼きにしようということになった。

腎臓もいよいよ末期で、人工透析カウントダウンの段階での高級和牛にはやや罪悪感だが、娘の誕生日という言い訳ともつかない名目により、きょうはおいしくいただくことにしようか。

娘が京都へ旅行に行った折に撮影した坂本竜馬の句「世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る」。沁みる言葉だ
娘が京都へ旅行に行った折に撮影した坂本竜馬の句「世の人は我を何とも言わば言え 我なす事は我のみぞ知る」。沁みる言葉だ