インド紀行

まえがきにかえて~インド紀行について

インド紀行は、私が学生時代のころ、夏休みを利用して行ったインド旅行について記憶を頼りにまとめたものだ。

当時の日記は破棄してしまっているし、あいまいな記憶を頼りとした文章なので、勘違い、記憶違いはたくさんあると思われる。

ただ、20数年経っても忘れていないことも確かに多くあり、それをいつかまとまった文章にしてみたいという思いはかなり前からあった。

その機会を持てずにここまで来てしまったが、闘病という期間がそれを可能にしてくれた。

肺炎の2度目の入院で、だいぶよくなってきたころ、ふと、この文章を書いてみようかという気になった。

思ったよりもスムーズに記憶は掘り起こされ、あまり悩むことなく、書き進めることができたように思う。

ただ、既に記したように、インドの旅の最後の部分で、記憶がぷっつりと飛んでしまっており、ある意味重要な箇所である、インドとの別れのシーンが全く思い出すことができない。

私はしばらく考えて、その先を進めることをあきらめた。

そして、またふと思い出すこともあるかもしれないと、その時が来ることを待つことにした。

それから1年以上が経つ。

依然、記憶は戻ってこない。

ということで、この続きはバンコクに舞台を移し、インドとはまた違ったいい思い出を作ってくれたバンコクの人々について、話題を進め、この紀行文を終了させたいと思っている。

2007年04月24日(火)執筆開始~2007年07月15日(日)執筆終了

インド紀行(1)プロローグ

私は学生時代に2度、インドを訪れている。21歳の時だったので、25年の歳月が経つ。
しかし、2度のインド旅行は、今でも鮮烈な記憶として焼きついている。

私にとってインド旅行は、それまでの価値観を大きく覆してくれたし、同時に自分の精神性というものを見開かせてくれた貴重な体験だったと思う。

それほどに、私にとってインド旅行は、大きな影響を与え続けている。

行ってよかったと思う。

実はこの旅行には、反対の声もあった。事実、私が負っていた責任を一時的にせよ放棄しなければ、40日間に及ぶインド旅行はできなかった。

その意味で、その責任を一時的にせよ、放棄する形になってしまったことをここに謝罪させていただきたい。ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした。

しかし、言い訳をするわけではないが、このインド体験によって得ることの大きかった私は、その後、その責任において、1か月強のロスをカバーして余 りあることができたのではないかと確信している。もちろん、それは私がどう感じるかではなく、重要なのは、周囲が当時、どう評価したか、であろうが。

25年前の記憶をたどった文章なので、思い違い、時間の経過による多少の脚色もあると思うが、ゆっくりとじっくりと旅の歩みをトレースしてみたい。

<旅の概要>

期間:1983年(S58年)8月2日~9月11日

地域:インド北部、タイ・バンコク

費用:渡航費往復20万円。滞在費15万円。お土産代5万円。

訪れた主な都市(移動順):

・デリー

・ニューデリー

・アグラ

・スリナガル

・レー

・ベナレス(バラナシ)

・カルカッタ

・プーリー

・タイ・バンコク

インド紀行(2)なぜ、インドなのか

私がなぜ、インド旅行を思い立ったのか。

それは以下の理由による。

(1)さまざまな価値観がるつぼのように渦巻く精神の大地への憧れ。

(2)仏教、ヒンドゥー教という世界的宗教発祥の地。

(3)アルバイト先の先輩がインドフリークで、その魅力を常に聞かされていた。

(4)日本と文化や風土などにおいて極端に違う国である。

(5)安く旅行ができる。

――などなど。

数え上げればきりがないが、要は、一人でじっくりと考える時間がほしかったのである。私はそのころ、いくつかの課題を抱え、完全な行き詰り(息詰まり)を感じていた。そして、それら諸課題はもはや国内に身を置いていては解決できないという思い込みもあった。

実際、日本にいる以上、学生とはいえ、さまざまなしがらみにとらわれており、すべてから解放されて、思索にふけったり、ぼぅっと何も考えずに時を過ごしたりということはできなかった。

それを可能とする最適な土地がインド――との結論に至ったわけだ。

このような動機から、私は未知なる大地へ”答え”を求めて、旅立つことにした。

インド紀行(3)パスポート、ビザ入手

貧乏学生による貧乏旅行とはいえ、1か月を超える旅行には、それなりの準備を要した。
最低限必要とするものは、(1)パスポート(2)入国ビザ(3)航空チケット――の3つだった。

それぞれの入手の経過は以下の通り。

①パスポート

当時、千葉県の我孫子に住んでいた私は、発行申請と受領のため、千葉市にある千葉県庁を2度訪れた。1週間程度の日数がかかったが、比較的スムーズに取得できた。

②入国ビザ

これはなかなかの難関だった。千鳥が淵沿いにあるインド大使館へ、申請書をまずもらい、次に申請書を提出、そしてビザ受領の計3回訪れた。暇な学生だからこそできたこととつくづく思う。

当然ながら、申請書はすべて英語。ヒンディーでなかったのはせめてもの救いだった。

かなりの数の質問項目を埋めて提出。1週間ほど待ち、受け取りに。

きれいなサリーを着た女性の職員の方から2、3の問いをかけられながら、ビザを受け取るのだが、他の人が何と聞かれているのか、わからない。

他の人がどうやら「Yes」と応答しているようなので、形式的な確認であろうと判断し、特に聞き返すなどせず、「Yes」と答えておいた。

すると、それまでぶっちょう面だった女性は急にニッコリとし、ビザを手渡してくれた。

何だかうれしかった。

自力でビザを取得できたという達成感もあるが、遠く感じていたインドが急に身近な存在に思えたからだ。

大使館を出ると、千鳥が淵の堀に夕日がまぶしく反射していた。

③航空チケット

いかに安いチケットをゲットできるかは、予算が限られている以上、やはり重要だった。25年前の当時は今のようにネットのネもない時代。情報の少ない中で 最良、最安チケットの入手などは望むべくもない。デリーへの直行便は当時、片道30万円。これを乗り継ぎなどのディスカウントチケットでどこまで安くでき るか。

手間暇をかければ、それなりの情報は入手できたであろうが、準備期間にあまり余裕がなくなりつつあったので、直感に掛けることにした。

ある日、大学の構内を歩いていて、インド格安チケットのポスターが目に入った。

往復19万円。

ピンと来た。これで行こうとほぼ即決した。

大学からさっそく旅行会社に電話し、会社はまずまず信頼できそうであることを確認。翌日、会社へ購入しに行った。

6か月のオープンチケット。バンコク経由デリー行き。航空会社はタイ航空。初めての海外旅行となる私にとっては、何の基準も持たないので、いいとも悪いとも何も判断が着かない。

とにかく旅行会社の人が信頼できそうということだけを頼りに、その場でチケットを購入した。

以上、これでインドに入るために最低限の必要物はそろったことになる。

インド紀行(4)いでたちを整える

インドに何を持っていくか。海外旅行どころか、国内の一人旅の経験もない私にとって、頼りになるのは『地球の歩き方』のみだった。ネットによる旅行記など、参考にできる情報がない当時は、『地球の~』は、ほとんど金科玉条に値するほどの重要な情報だったと言っていい。

出発前に決めていた宿泊の基本的なプランは、どんなに安宿でも、屋根のあるホテルに泊まる。つまり野宿はしないということだった。あまりに危険だし、荷物も多くなる。

滞在費の予算は15万円。予定の30日で割ると1日当たり5000円。しかし、これは交通費を含めた額だから、1日の宿代と食費を合わせた額を3000円と想定。食費は最低でも1000円はかかるだろうから、宿代は2000円以内となる。

インドにおける1泊2000円のホテルは、とりあえず一部屋が確保される(共同部屋ではないということ)が、シャワーは基本的に水だと思った方がいい、と『地球の~』にあった。

やむをえないだろう。屋根の下に眠れるだけでも幸せだと思わなければならない。

持ち物で一番悩んだのは、カメラだった。大学の写真サークルに所属していた私だが、写真の腕前はひどいものだった。下手ゆえに少しでも上手くなりたい、が入部の動機だった。

重い機材を抱えていっても、ろくな写真は撮れないだろうから、コンパクト1台でいい。

いやいや、魅力的な被写体にあふれるインドに行くのだから、それなりに周囲は期待するだろう。一眼レフを持っていくべきだ。

最後の最後まで悩んだ末、持っていかずに後悔するよりは、持っていって後悔する方がましであろうということで、当時使用していた一眼を2台、キヤノンNewF-1とペンタックスMEを持っていくことに決めた。

レンズはNewF-1には28ミリ、50ミリ、85ミリの3本。MEには50ミリと70-210ミリのズームの2本。

これにフィルムを大量(コダクロームを約30本)に。加えて三脚まで。写真機材だけでも大変な装備になってしまった。

結局、大型のリュックサックにこれまた大型のカメラバッグを肩にかけてというスタイルで、旅のいでたちは確定した。

インド紀行(5)いざ、出発

いざ、出発である。

前置きが長かった。しかし、インド到着はまだまだ先である。それだけ、当時の旅は今に比べ、スムーズではなかったということだろう。

先述したように、私は当時、千葉県の我孫子に住んでいた。成田空港には比較的近くだったわけだ。

我孫子からはJRの成田線が出ているので、まずはそれに乗り込み、成田駅を目指す。ローカル電車とローカルバスを乗り継いでの成田空港へのアクセスは、貧乏旅行にふさわしいスタートと、満足したものだった。

約40分でJR成田駅到着。JRの駅周辺には空港行きのバスがなさそうだったので、京成成田駅へ移動すると、空港行きバスがあった。乗り込んで空港へ。途中、関所?でパスポートの提示を求められる。問題なくパス。

順調な滑り出しだった。

空港に着いたのはお昼過ぎだった。飛行機は夕方の出発。時間的なゆとりは十分だった。

荷物チェックもスムーズだった。機内への持ち込みはカメラバッグのみ。これだけでも大きな荷物だが、精密機器なだけに、荷物庫で手荒な積み下ろしをされたら、それこそアウトだ。

搭乗口で待つことしばし。既に私が乗るであろうタイ航空のジャンボが停まっていて、機内整備を行っているようだ。

夕日に染まるジェットの機体を眺めつつ、遥かなるインドの大地に思いを馳せた。

しかし、その道のりはまだまだ遠い。バンコクでは1泊して飛行機を乗り換えなければならない。

飛行機に乗るのも初めてなのに、しかも外国の地で、本当に大丈夫なのか……さすがに不安はぬぐえなかった。でももう旅はスタートしてしまった。進むしかないんだ、と自らに言い聞かせた。

インド紀行(6)最初のアクシデント

ところが、最初のアクシデントがここで発生した。

「タイ航空、バンコク行きの○○○便は、出発が遅れる見込みでございます。出発の見込みが立つまでしばらくお待ちください」

国際線の飛行機の出発が遅れることは、よくあることと、納得し、ぼんやりと機体を眺めつつ、出発のアナウンスを待つ。

約1時間後、再びアナウンス。

よし、これでやっと出発だと思いきや……。

「タイ航空、バンコク行きの○○○便は、現在、機内整備中でございますが、前フライトで輸送したへびが機内で行方不明になり、 現在捜索中でございます。ご迷惑をおかけしますが、今しばらくお待ちくださいますよう、お願い申し上げます」

これには搭乗を待つ客は、一斉に、えーっと声を挙げて驚いていた。私も驚いた。

「ダブル予想外です」

とにかく待つしかなかった。とにかく一刻も早くへびを捕まえてもらって、飛び立つ以外に私のすべきことは何もない。

さて、この先、一体どのようなアクシデントが待っているのか。

不安でもあり、楽しみでもあり

インド紀行(7)それでへびはどこへ行った?

搭乗ロビーで待つこと3時間。

もうしばらくお待ちくださいのアナウンスが延々と続く。へびはなかなか捕まってくれないようだ。
機内では壮絶な捕獲劇が繰り広げられているのかもしれないが、待たされる身としては、つらく、不安だ。 私は不安を抑えるように、タバコを何本も吸い続けていた。

もしこのまま欠航になったりしたらどうなるのか。旅慣れない私はさすがに先行き暗いものを感じた。

さらに待つこと2時間。出発予定時刻から約4時間遅れて、出発可能となった旨のアナウンスが流れる。

待ちくたびれていた乗客は、とりあえずほっと安堵。

ところが、この時点で気になっていたことがあった。アナウンスに飛行機は出発することになったとあったが、 飛行機を遅らせる原因となったへびに関する言及がなかったのだ。

ん?、聞き逃したのであろうと、深く追及することなく、機内へ向かう。とにかく早く出発してほしかった。

時刻は夜9時になろうとしていた。バンコクに着くのは確実に深夜になる。バンコクの宿は確保されているので、 安心感はあるものの、ホテルまでの足はあるのかという不安は残されている。

機内へ移動。初めての飛行機。しかも国際線。さすがに緊張する。荷物の仕舞い方すら分からない。戸惑う私に、 やさしく声をかけてくれたのが、美しいタイ人のFAさん。 しかも美しいばかりではなく、身のこなしも洗練されている。
へび騒動に、やや腹を立てていた私だったが、そんなことはどうでもいいという感じがしてしまうほど、 FAの皆さんに魅了されてしまった。

インド紀行(8)機内でへび、突然現る

全員の搭乗が済み、いよいよ離陸である。

無事離陸し、安定飛行に入ると、さっそく食事が出される。タイ料理は初めてだったが、とてもおいしく感じた。

食事を終えると、出発が遅くなったこともあり、眠くなる。毛布をもらい、しばし仮眠に入る。

この後、目が覚めた時、機内にかなり差し迫った事態が起こっていた。そして寝起きでぼんやりとした頭の私は、 しばらく状況を把握できずにいた。
目の焦点が定まってくると、前方のスクリーンの上の方に、乗務員が棒をかざして何やら突付くような仕草をしている のがわかった。

ん……へび……?。

搭乗した時の嫌な予感が当たった。やはりへびは捕まっていなかったのだ。仮に捕まったにせよ、すべて捕獲したわけではなく、 逃げおうせたへびがいたのだろう。

まさに捕り物帳が目の前で演じられていた。自分にかかわっていることながら、どこか他人事のように楽しんでいた。

パネルのすきまから、ニョロリとへびの尻尾が見える。棒の先に針金の輪をつけたようなもので、尻尾を巻きつけ、 捕獲しようというのが作戦らしい。網も用意されている。乗務員にとって、フライト中の出没は想定内の出来事のようだ。

私も思わずカメラを取り出し、まるで関係者ばりに接近して写真を撮った。だがだれも何も注意をしない。

30分ほどのへびと人間のにらみ合い(実際、見えるのは尻尾だが)の末、飛行中の捕獲は難しいと判断したのか、 急きょ、予定を変更し、マニラ空港に着陸し、へびの捕獲をすることになった。

インド紀行(9)2度目のアクシデント

マニラ空港で、乗客は全員降ろされ、ロビーでしばし待機させられる。

この間に用を済ませておこうと思い、トイレに入ろうとすると、その前に現地の若い男たちが何やらたむろしている。何だろうと思いつつ、用を済ませ、手を洗うと、男の一人が、濡れた私の手にグイっとティッシュペーパーを押し付けてきた。
一瞬、その意味が分からなかったが、ペーパーは既に濡れた状態にあり、それを受け取る以外になかった私は「サンキュー」と言って手を拭き、トイレを出ようとした。
すると、その男、必死な形相で「マネー!、マネー!」と叫び出した。
これも意味がすぐには理解できなかった。
周囲を見回すと同じような状況の乗客がおり、男たちと言い合いになっているのが目に入った。
「なるほど、お金を要求しているのか」
一瞬、拒否することも考えたが、こういう体験は初めてであり、何が飛び出してくるか分からない。相手は複数であるという恐怖感もあった。
仕方なく、財布から1ドル紙幣を取り出し、男に手渡した。
男は「もっとだせ」というような目つきをしたが、さすがにそれには私は応じなかった。男もそれ以上求めることはなかった。

トイレを出て、ロビーに戻り、タバコに火を着ける。立ち上る煙が小刻みに震えている。気持ちを落ち着かせるように、大きく煙を吐いた。

「へびは金運を呼び込む動物じゃなかったのかな……」

そんなことを考えつつ、浅黒い男の顔が繰り返しフラッシュバックする。

ライトを浴びた機体をぼんやりと眺めながら、これからの旅の行く末に思いを巡らせていた。

インド紀行(10)深夜のバンコク空港に到着

マニラ空港で1時間ほど待たされ、再度、搭乗が始まる。ヘビは何とか捕まえてくれたようだ。
英語なので分かりにくいからではあるが、アナウンスを聞く限り、極めて事務的であって、迷惑をかけたことへの謝罪の感じは伝わってこなかった。

とにかく重要なことは、目的地まで飛んでくれることである。ヘビを積んでいようがいまいが。

マニラを発って数時間で順調にバンコク空港に到着。

予定では、バンコクで1泊し、あす夕方の便でデリーに向かうことになっている。
バンコクのホテルだけが、チケット代に含まれている。

到着時刻は午前3時を過ぎていた。予定では前日の午後9時前後に着いているはずだった。ヘビ騒動によって5時間以上も遅れてしまったというわけだ。

空港に吐き出された乗客は私が乗った便だけのようで、みな疲れきった表情で入国審査の列に並んでいた。

私が入国審査を済ませ、荷物を受け取り、到着ロビーに出た時には乗客の姿はほとんどなかった。目当てにしていたリムジンバスももちろんなし。

さて、どうやって市内まで行くか。

空港から25キロも離れたホテルへ、こんな深夜から泊まりに行くのもどうかと考え、このまま空港で夜を明かすかとも考えたが、翌日の夕方のフライトということもあり、やはりホテルに泊まることにする。

ロビーを出て、タクシー乗り場へ。

停まっているタクシーに声をかけ、運転手にホテルの場所のメモを渡す。少し考えていたが、やがて彼はうなづき、「500バーツ」と言って私にメモを返した。

500バーツ……日本円で約5000円。これは痛い。タクシーの往復だけで1万円も出費してしまうのは旅の序盤においては、いかにも痛い。

どうする? と目配せする運転手。

うーん、仕方ないとあきらめ、「OK」と言ってタクシーに乗り込んだ。

インド紀行(11)クセになるアジアの味

タクシーはまさにビュンビュンという音を立てて飛ばした。深夜の高速道はがらがらだった。スピードメーターを覗き込んだが、日本のそれと表示が違うので、実際何キロ出ているのか分からない。体感速度的には100キロは裕に超していた気がする。

途中、眠くなってしまい、大丈夫かなと思いつつ、眠ってしまう。
 
 ………………………………………………………………
 
ドライバーに声をかけられた時は、既に市内に入っていた。

もうすぐだ、というようなことをつぶやくドライバー。

大通りから、1本路地を入ったところでタクシーは停まった。

約束の500バーツを渡し、「サンキュー」と言ってタクシーを降りる。

造りこそ古そうだが、思いのほかきちんとしたホテルであることは外観から分かった。
チェックインを済ませ、部屋へ案内してもらう。
調度品などはやはり古めかしいものの、ベッド等はきれいなのでほっとする。

とにかく疲れた。一刻も早く眠りたかった。

シャワーを浴びることなく、ベッドに倒れこむように眠ってしまった。
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翌日、目覚めた時は10時を回っていた。

シャワーを浴び、一息つく。

出発の夕方までは少し時間があるので、外に食事に行くことにする。

荷物をホテルのカウンターに預け、カメラ1台を肩に下げて、市内見物へGO。

初めての海外街歩き。さすがに心が弾んだ。
泊まったホテルはバンコクでも繁華街にあるようで、歩いてすぐ、屋台や飲食の店がひしめき合うように並んでいた。

お腹が空いていたので、適当なお店に入り、現地の人が食べているラーメンのようなものを注文。

うまい! なんといううまさだと感激した。
いわゆるこれがアジアンテイスト。初めての体験だった。
独特の香草の風味のスープ。白いそうめんに似たツルツルとした食感の麺。いわゆるフォーに似ている。
この味は病みつきになりそうだと感じた。

しかし、残念ながら、バンコクの滞在はそう長くない。
帰りがけにも寄るが、日程的にどれだけいられることになるかは不明だ。

旅の本番はこれからのインドではあるが、バンコクも魅力的な街であることが、短い時間ながら感じることができた。これは大きな収穫だった。

それにしても、不思議なのはバンコクにただようかぐわしき香りである。ユリの花びらから発するような、妖艶というにふさわしい香りが街中に満ちている。この街の匂いは、クセになる。

地図等を持ち合わせていないので、迷子にならない程度に街を歩き、写真を撮り、ホテルに戻る。

午後2時、いい時間だ。

ホテルに横付けしているタクシーに空港までの料金を聞く。

「350バーツ」

きのうの500は深夜料金だったのだと納得し、タクシーに乗り込んだ。

インド紀行(12=編集中記)インドの都市名などについて

インド旅行の本編に入る前に、ここで”編集中記”を。

このインド紀行、書き始めは25年前の記憶だけを頼りに書き上げていくことを考えていた。
しかし、さすがに細部の固有名詞などを正確に覚えているはずもなく、その辺りはあいまいにならざるをえないと思っていた。

ゆえに、当時も道しるべとして世話になった「地球の歩き方」をアマゾンで注文し、病院に取り寄せるかとまで考えたが、あまり大げさなことになってもと思い、やめた。

ところがである。

何と、とある友人が、この「地球の歩き方」を差し入れしてくれたのだ。
彼は常々ブログを読んでくれているとのことで、「これがあれば書きやすくなるのでは」と気遣いをしてくれたのだ。

ありがたい。感謝感謝である。

これでインド紀行に一層の弾みがついた。そして何よりも正確を期した文を書くことが可能になった。

「地球~」を25年ぶりにざっと見渡し、当時とあまりの表記の違いに戸惑わざるをえないのは、地名である。

 (旧)  (新)
カルカッタ→コルカタ

ベナレス→バナーラス

マドラス→チェンナイ

ボンベイ→ムンバイ

スリナガル→シュリナガル

といった具合である。

過去の記録なので、基本的には当時の一般的な呼ばれ方に統一し、必要に応じて、現在の呼び名をカッコ書きで補っていく形にしたいと思う。

あと、当時かかった費用の問題である。メモが残されていないので、全くの記憶を頼りにするしかない。基本的には「地球の~」を参考にしているが、よほど大 きな差がない場合は、私の記憶に忠実な費用、値段で記述することにしている。記憶違い等、多々あろうが、そこは25年前と、ご容赦願いたい。

また、泊まったホテル等も明確な記憶がない限り、特定できないので、イニシャル化している。

さて本編に入るまで10回以上を要してしまったが、いよいよインド編の始まり、始まり。

インド紀行(13)デリー空港で夜明かし

インド滞在1日目 デリーにて

バンコクからデリーへ向かうフライトは極めて順調で特にトラブルもなかった。

デリー国際空港に到着。

とうとう私はインドの大地にその第一歩を踏み出すことができた。

思い切り深呼吸してみる。バンコクとはまた違う、独特な香辛料の香りが漂う。
これがインドの空気なのだなと思うとうれしくなった。

機内であらかじめ書いておいた入国カードとパスポートを合わせ、入国審査を受ける。簡単な質問に答え、パス。こうした儀式にも次第に慣れてきたようだ。

荷物を受け取り、到着ロビーへ。

時刻は夜11時すぎ。さて、どうするか。

明日からの日程は決まっている。
私が旅行直前までアルバイトとして働いていた某新聞社のニューデリー支局長、Yさんのお宅にお邪魔する予定なのだ。

通常なら、何かしらのアクシデントで飛行機は遅れるものなので、意外にもスムーズにデリーまで飛んでしまったのは、ある意味拍子抜けであり、時間を大いに持て余すことになってしまった。

今からデリー市街へ行き、宿を探すのは困難だし、もったいない気がしたので、空港で一夜を明かすことにした。
空港ならば警備もきちんとしているし、物取りに合うようなこともないだろう。

見渡す限り、ロビーでは、気の向くままに人が寝転んでいる。実際、私と同様な外国人旅行者も散見される。が、横たわっている人間のほとんどは現地人のようだ。

パスポート、トラベラーズチェック類は首からぶら下げているので、大丈夫だろう。その他の貴重品類は、ウェストポーチに入れ、抱きかかえて眠ればいい。比較的居心地のよさそうなロビーの片隅を見つけ、夜明かしの体制に入った。

眠りに落ちるまではそう時間はかからなかったようだ。目が覚めた時には、既にロビーには太陽の光が差し込んでいた。
時計を見ると5時。
そして、貴重品類を点検。
ある。すべてある。
ほっとする。

安心して、もう一眠り。

周囲が騒がしくなって、目が覚める。
一番機が到着したようだ。

午前7時。いい時間だ。

さあ、そろそろ行動開始だと、私も体を起こし、ロビーの外へ出た。

インド紀行(14)Y宅へバイクでGO!

インド滞在1日目 デリーにて

Yさん宅はニューデリー郊外にある。どの手段で行くか。タクシー、オートリクシャなどが、所狭しとひしめき客を待っている。

どの方法で行くか。

タクシーは高いだろう。それならオートリクシャか。

デリー空港周辺のタクシーやリクシャは観光客狙いの、いわゆる”ぼったくり”も多いので気をつけよとガイドにあったので、ここは慎重に構えることにした。

さっそく数人が、私に近寄り、「タクシー?」と声をかけてきた。

「トゥー ニューデリー、ハウマッチ?」

「120ルピー、オンリー」と運転手。

120ルピーがオンリーな値段なのか、にわかには信じがたい。

もう少し他と交渉しようと、「サンクス」と言って別の運転手と交渉をしようとすると、「OK、100オンリー」。

下げてきたなと思ったが、それでも私としては、まだ高いと感じたので、もういいよと離れようとしたが、腕をつかんできた。なかなかしつこい男だ。
これくらいはここインドでは当たり前のことなのだろう。

いずれにせよ、そこにたむろするドライバーたちからは、いい印象を受けなかったので、その場を離れることにした。

バンコクでのタクシー代、約1万円のロスは大きかった。あまり序盤にお金を使いすぎてしまうと、後々、厳しいしわ寄せが来る。できるだけ節約したい。

サイクルリクシャは安かろうが、ニューデリー郊外はいかにも遠すぎる。

タバコを吹かしながら、考えあぐねていると、一人の男が声をかけてきた。40代半ばといったところだろうか。

ニューデリーの郊外まで行きたいが、いくらかと聞くと、50ルピーだという。オートリクシャにしても安いと思い、よく聞くと、オートバイだという。つまりはバイクの二人乗り。

少し危険かと思ったが、速いし小回りも利きそうだし、男は人柄的にも擦れた嫌な感じも見受けられなかったので、この男に連れて行ってもらうことにした。プリペイドが原則なので、50ルピーを先払い。

大荷物を背負った私は、男の背中にしがみつくのが精一杯だった。当然ながら、かなり荒っぽい運転である。左右に振られる、振られる。周囲の景色など楽しむゆとりは全くなかった。
しかし、次第にそのリズムにも慣れてきて、周囲を見回す余裕ができてきたころには、もうニューデリーに着いていた。
さすがに速い。
多少の怖さはあったが、安くて速いオートバイの選択は正解だったかもしれない。

メモの住所を頼りに、男は何かをつぶやきながら、周囲に目を配っている。

どうやら近くまでは来ているようだ。しかし、さすがに細かい住所までは分からないようだ。有名ホテルなどへ行くのとは違うのだから仕方ない。

私に何かを聞くが、当然私だって分からない。

「アイ ドンノー」というと、男は不平を言いたげな顔をしていた。

男は何かを急に思い立ったように、ハンドルを切り返し、少し走ると、事務所風の構えの敷地にバイクを乗りつけ、私に何も言わず、その建物の中に入って行ってしまった。

待たされること10分。男はわかったとうなづきながら、「ゴー」と私に早くバイクに乗るように指示した。

インド紀行(15)瀟洒な邸宅に到着

インド滞在1日目 デリーにて

男の確信に狂いはなかった。走り始めてほどなく、通りから少し奥まった閑静な住宅街の前で、バイクは止まった。

男は、たぶんここ、という目くばせを私に送って、バイクを降りるように指示した。
本当にここなのだろうかと半信半疑ながらもバイクを降り、邸宅を覗き込もうとすると、バイクはあっという間に走り去って行ってしまった。

邸宅はピンクとオレンジの中間色で彩られた外壁とバルコニーを持ち、瀟洒な雰囲気をかもし出していた。

目の前には水路があり、並木が沿って植えられている。いかにも高級住宅街といった趣がある。

邸宅の玄関の呼び鈴を押すと、マイルス・デイビスを彷彿とさせる大男が出てきた。

「イズ ディス ミスターY’s レジデンス?」

「フー アー ユー」
さすがに男は不審気たっぷりである。

拙い英語で、私の名前、身分、Yさんに約束をもらってここに訪ねてきたことを、身振り手振り交えて必死に話した。汗だくになったことは言うまでもない。

懸命の説明の後、マイルスは、ちょっと待ってろといい、建物の中に消えた。待つこと5分、マイルスは笑みを浮かべ、中へ導いてくれた。
よかった。ここは間違いなくYさんのお宅で、タイミングよくYさんもいらっしゃったようだ。
心から安堵する。

マイルスにリビングに通され、ソファにかけて待つ。Yさんは自宅にあるオフィスで仕事中のようだ。

当面の目標、Y宅にたどり着くことを果たせたという達成感は、疲れた体に深く浸透するような言い知れぬ愉悦をもたらした。
それに何より、Yさんが日本人であるという安心感も大きい。
何といっても、インドの支局長さんでおられるのだから、まさにインドを知り尽くしている人。このような状況で安心感に包まれないわけがない。

しかも、一介のアルバイトに過ぎない学生(しかもこの時点では辞めていた)の来訪を受け入れてくれる支局長の度量の大きさにも、感謝の念でいっぱい だった。忙しい特派員の仕事である。学生のお遊びに付き合う暇はないと言って断ったとしても当然のことであり、何の問題もない。ところが、私が東京でまだ バイトをしていた折、電話で思い切ってお願いをしたところ、二つ返事でいいですよと。心底うれしかった。

いきなりの日本人による庇護からスタートする旅、ということではインド紀行としてはいかにも生ぬるいし、迫力にも欠けよう。しかし、これが事実だっ たのだから、仕方ない。事実を消すことはできない。私はこの文章をもって、Yさんから受けた恩への感謝の念を示したいのである。

私は、風通しのよい涼しいリビングで、旅の始まりから、ここまでに至るいくつかのエピソードや難関を思い起こしつつ、Yさんのお出ましをひたすら待っていた。

インド紀行(16)Y宅での民泊が決定

インド滞在1日目 デリーにて

重厚な大理石の床、落ち着いた調度品、美しいインド綿の織物がセンスよくをしつらえられた室内からは、Yさんの人柄が伝わってくるようだった。

人の気配がしたので、立ち上がってドアの方をうかがうと、奥様だった。買い物にお出かけだったようだ。
自己紹介、旅の簡単な目的、あつかましくも訪問させていただいた御礼を述べさせていただく。

あまり硬くならないように、と奥さん。
この言葉通り、比較的ざっくばらんが身上の方のようだ。
ほっとする。

「あらら、飲み物も出さないで」と冷たいパイナップルジュースを出していただいた。

ジュースは乾いた喉を沁み込むように潤していった。

奥さんとしばらく雑談をしていると、Yさんが2階のオフィスから降りてきてくれた。

飛び上がり、「はじめまして。Fと申します」と、緊張のあいさつ。

「そんなに緊張しなくていいよ。さぁ、かけて」とYさん。

イメージに描いていた通りの極めて紳士的な振る舞いが似合う方であった。

職場でお世話になったデスクや部員の皆さんの近況などをお話しすると、「そうですか、そうですか」と興味深そうに耳を傾けていただいた。

旅の予定などをお話しさせていただいて、話に一区切り着いたところで、Yさん、「それで、きょうはどこか泊まる宛てはあるんですか」と。

実のところ、私はこの点において、何も考えていなかった。まさに行き当たりばったりである。いずれにしても、Yさんのアドバイスに従おうとだけ考えていた。

「いいえ、特に決めていないんです」

「それじゃあ、ウチに泊まっていきなさい」

それは申し訳ないし、あまりにあつかまし過ぎると思った私は、デリーでホテルを探します、と丁重にお断りした。

しかし、Yさんは引こうとせず、「いいから、泊まっていきなさい」。奥さんも「いいのよ、遠慮しないで」。

そこまで甘えていいものか――。悩んだ。

「ウチはほんとに構わないの。長くインドにいるんだから、2、3泊くらいしていって。部屋も余裕があるのよ」との奥さんの言葉は、何のつくろいもないように感じた。

「それでは、お言葉に甘えて……。本当にありがとうございます」

Y宅への民泊、決定である。

インドに似つかわしくない、”ゴージャス”なスタートで果たしていいのか、と思いつつ、ご夫妻のあまりにも温かい歓迎ぶりに感動することしばしだった。

インド紀行(17)所変わればビールも変わる

インド滞在1日目 デリーにて

Y宅には使用人が3人。一人は玄関で応対に出てくれたマイルス。彼は運転手。一人は掃除をしてくれる、気のよさそうなお兄さん。そして料理のおばさんである。

当時のインドの中流家庭での標準的な使用人の数らしい。

インドで言う「中流」が一体、どの程度のレベルを指すのかわからなかったが、少なくともデリー空港で寝転んでいた人たちとは、明らかにレベルの差があることだけは間違いないと思った。

Yさん、「オフィスをのぞいてみますか」。
「ぜひ拝見してみたいです」と私。

私が働いていた新聞社の東京本社の外報デスクは、世界中の特派員オフィスの情報を集約する、いわばターミナル。その情報の最先端であり、まさに現場がどうなっているのかは、興味の的だった。

オフィスは思ったほど広くなく、8畳程度の部屋にぎっしりと情報端末が並べられていた。

ジジジジジ、ジジジジジ……。感熱式のロールペーパーが音を立て、プリントが吐き出されていく。APは白地、AFPは白地に紫色の帯、ロイターは白地に緑の帯、新華社が黄色地は、東京と全く同じ。テレックスも東京と同じ機種が置かれていた。

部屋にはインド人が一人、奥のデスクに向かっていた。現地採用のアルバイトさんだそうだ。私と同じ学生。でも私と違い、極めて優秀そうな感じがしたのは、なぜだろう。
Yさんが取材で出かけた時は、一人で連絡の中継となる頼もしい存在らしい。
「取材の補助だけではなく、電球の取り替えも上手ですよ」と私たちを笑わせてくれた。

ということは、この家にはYさんご夫妻以外に4人の人が働いていることになる。

下に降りると、今度は奥さんが私のために用意してくれた部屋へ案内を。
決して広くはないが、清潔感にあふれる部屋。ホテルでいえば、最高級の部類に入ることは間違いない。

ありがとうございます。深々とお礼をする。

「いろいろあって疲れているでしょう。少しお休みになったら」

ありがたいお言葉。その通りにさせていただくことにした。

簡単に荷解きをし、着替え、ベッドに横たわった。

長く緊張した状態にあったせいか、落ち着ける場所を見出した頭と体は、一瞬にして眠りに落ちた。

3、4時間ほど眠ってしまっただろうか。

奥さんの「食事ができました」の呼びかけで目が覚めた。

外は薄暗くなっていた。夢を見ていた私は一瞬、インドに今、いることが全く分からなかった。ここがニューデリーのY宅であることを認識するまでに1分はかかったと思う。

ダイニングには、たくさんの料理が並べられてあった。その料理がどのようなものだったか、残念ながら記憶が薄れてしまっている。ただ、Yさんが、味噌、しょうゆなどを入手するのは、なかなか大変だという話をされたことは、はっきりと覚えている。
なぜかといえば、私がY宅への手土産として持参したものが、この味噌としょうゆであった。Yさんは、そのことを事の他、喜んでいただき、食卓の話題に出されたのだった。

あと、もう一つ、忘れられないのが、ビールである。

勧められたビールを一口飲んだが、日本のビールとのあまりの味の違いに驚いた。Yさんには申し訳ないが、正直、まずいと感じた。

一瞬、私が顔をしかめたのをYさんは見逃さなかったようで、「おいしくないでしょ。これでもこっちでは上等なビールなんですけどね」と笑う。

当たり前だが、所変わればビールも変わる。

それでも、勧められるままに、ビールを飲み続けながら、これからの私の滞在予定の土地土地での旅のアドバイスなどを話していただき、夜は更けていった。

インド紀行(18) カーストの一分を垣間見て

インド滞在2日目 デリーにて

インド2日目の朝は、最高に気持ちのいい目覚めだった。

朝食の話題の中で、私のきょうの予定をYさんに聞かれた。私はうかつにも、全く予定を立てていなかった。
そこですかさずYさん、「それじゃあ、僕と一緒にデリーを回ろう。案内しますよ」。
そんな過保護旅行でいいのだろうか、との反問とは裏腹に、ぜひぜひという思いが喉まで出掛かっていた。

Yさん、「きょうは休みだから、大丈夫なんです。では行きましょう」と言い終えないままに、運転手のマイルス(実名を忘れたので、勝手な愛称で)を呼んでいた。

これから長いインド旅である。こういうこともあっていい。いや、こういう予行演習があって、一人旅も成功裏に終わらせることができるに違いない。

食事を終え、カメラを一台取り出し、出発へ。車は、頑丈そうなJeepである。相当な年季が入っていると見えて、手入れこそしてあるが、見掛けはポンコツといった趣。

マイルスの運転は予想以上に丁寧だった。新聞社の特派員を乗せた車である。危険な運転では務まらない。

昨日、オートバイの後部でしがみついていた時は全く目に入らなかったデリーの風景が、細部にわたってみえてきた。

最も目を引いたのが道端で働く女性の姿だった。野菜等の行商、工事現場でレンガを運ぶ女性、そしてゴミ処理?なのか、黙々とゴミの山と向き合う女性。Jeepの薄汚れたビニール製窓の向こうに、一つのインドの現実を垣間見た気がした。

「カースト。これがカーストというものなのか……」

私はYさんに質問をしようとしたが、やめておいた。これは人に聞くことではなく、自分で考えるべき問題だと思ったからだ。

マイルスは機嫌よさそうだ。Yさんと行き先を確認しながら、Jeepは軽快に走る。
やがて大通りに出る。

堂々たる威容の建築物が並び建つ。さすが大国の首都であることを実感させられる。

車はコンノート・プレイスに差し掛かった。ニューデリーの中心部にあり、航空会社や物産店などがここに集約されているという。

Yさん、唐突に、「イスラムには興味がありますか」。

私は「もちろんありますが、今回の旅は仏教とヒンドゥーが中心かなと思ってきました」。

「それなら、ここではイスラムに触れておいてもいいかもしれませんね。案内しましょう」とYさん。

Yさんは、「ジャマー・マスジット」とマイルスに告げると彼は大きくうなづいた。

インド紀行(19)日本風カレーに一安心

インド滞在2日目 デリーにて

しばらくすると、巨大なモスクと塔がそびえるイスラム寺院に到着。ここがジャマー・マスジットらしい。

入り口で靴を脱ぐことになっている。

「はだしになりましょう」とYさん。

大理石の床がひんやりと気持ちがいい。

礼拝堂を見学。私は生まれて初めてイスラムの祈りの空間に足を踏み入れたことになる。貴重な体験だ。

Yさん、「高いところ、上がってみますか」と、指で上を指す。塔の上のことであろうことは、私もすぐ理解できた。「僕もまだ上がったことないんでね、いい機会ですよ」。

高さ40メートル。ビル10階建て、いやそれ以上に相当するだろうか。薄暗い螺旋階段を登る、登る、登る。

息が完全に上がったところで、ようやく頂上に到着。頂上部は4人が限度の狭いスペース。幸い、私たちのほかはだれもおらず、まずは息が落ち着くまでしばし座り込んだ。

Yさんより年の若い私は、先に立ち上がり、下を見下ろしてみた。デリーの市街が360度、展望できる。まさに絶景である。広々とした新街区と建物がひしめき合う旧市街とのコントラストが著しい。整然と雑然が織り成す一体感。その風景はこの国を象徴している気がした。
 
 
お腹が空いた私たち一行は、デリー市街のレストランへ。Yさんがよく利用しているところだという。こぎれいな店内、身のこなしのきちんとしたサーバントといい、ここがインドでもかなり高級なクラスのレストランであることが分かる。

Yさんは、これから飽きるほど付き合うことになるでしょうがと前置きし、タンドリーチキンとカレーを注文。

さて、本場のカレーはいかにと食べてみると、日本における本場に近いといわれるカレーとさほど遠くは感じられなかった。つまり、日本人の口に合った味付けがされている。もちろん、スプーンがあらかじめ置いてあった。

Yさんもそのことを認めていて、「食べやすいでしょ」と。「でもね、めったにお目にかかれないでしょうよ、こういう味には。ここは観光客が主のレストランですからね」。

なるほどそうだろうと思った。観光客やYさんのような海外からのインド駐在者は、こうしたところで食事をするのが決まりなのであろう。

「おいしいです。おいしいです」と私は何度となくうなづきながら、カレーを口に運んだ。
 
 
レストランを出るころは、もう辺りが薄暗くなっていた。

Yさんに、「明日は?」と聞かれたので、「スリナガル(シュリナガル)に行こうと思います」。
「それじゃ、切符を買って行きますか」
「いいえ、大丈夫です。明日、自分で何とかしますので」

さすがにそこまでは甘えられない。
 
 
Y宅での2泊目の夜。
予行演習は十二分なくらいさせてもらった。
明日からがいよいよ本番、本格的な一人旅のスタートである。

さすがに緊張する。しかし、きょうも感じたことだが、案内をしていただいたYさんには大変申し訳ないが、過保護下の旅は、正直面白味に欠ける。やはり旅の醍醐味は一人旅だろう。

果たしてどんなアクシデントやハプニングが待ち受けているのだろうか――などと考えているうちに、いつしか眠りに溶け込んでいた。

インド紀行(20)再会約しマイルスと硬い握手

インド滞在3日目 デリーにて

Y宅最後の朝。

朝食をいただき、荷造りをして、出発の準備完了である。

Y宅の使用人の皆さんにお礼と別れを告げる。お掃除のお兄さん、なぜかとても寂しげな表情だった。

奥様とYさんに丁重にお礼を申し上げる。何もご恩返しができないことが歯がゆいが、この旅を最後まで成功させることが自分のできる唯一の恩返しと心に決めた。

では、とY宅を辞そうとすると、Yさん、マイルスに何か指示。どうやら、私を駅まで送っていきなさいということらしい。

断ることも考えたが、こうなれば甘えついでである。申し訳ございませんと、あっさりお願いしてしまった。

再びJeepに乗り込み、Yさん、奥様、使用人の皆さんに、手を振って別れを。

ありがとうございました。一生、このご恩、忘れません。

マイルスと二人きりになった私は、さすがに困った。マイルスは英語を話せるが、何を話せばよいのか。お互い無言のまま気まずい時間が流れた。

やっとの思いで、片言の英語で、「スリナガルへはどう行けばいいと思うか」とマイルスに聞いてみた。

マイルスの意見はこうだった。

鉄道でもいいと思うが、バスもいいのではないか。値段も鉄道と変わらないし、何しろ最近はリクライニングができるバスが多くなっている。鉄道だと1等でもそういうわけにはいかないから。

デリー―スリナガルは直線距離で600キロ。車中1泊2日の長旅になる。私はあっさりとマイルスの意見に従うことにした。まずは比較的簡単そうなバスから入ってみようと。

コンノート・プレイスのバスターミナル着。マイルス、目で着いたよ、という合図。

「サンキュー、ベリーマッチ。シーユーアゲイン」と手を差し出し、硬い握手。

マイルスは私に両手を重ね、しばしこれからの旅、いろいろあるだろうが気をつけて行け、途中で便りを必ず寄越せ等々、と励ましてくれた。

私は車を降り、走り去るJeepをしばらく見送った。

いよいよ、である。

さっそくスリナガル行きバスについて案内に聞いてみる。

「ありますよ、17時出発です」

今はまだ11時。時間はたっぷりあった。チケットを購入し、自分なりのデリー探索をしてみようと思い立った。どこへ行くか。迷った挙げ句、国立博物館を見学することにした。時間を費やすにはもってこいだろう。

流しのオートリクシャーを捕まえ、インド門経由で国立博物館を目指すようにお願いした。

オートリクシャーとは、オートバイに乗用のほろが付いた乗り物で、今で言うなら、ビザ宅配バイクをやや大型化させたものといえばイメージが沸きやすいだろうか。

周囲の乗用車やタクシーに負けず劣らずのスピードと見事なハンドルさばきである。
あっという間に壮観なインド門をくぐり抜け、国立博物館に到着した。

インド紀行(21)路線バスに振り落とされる

インド滞在3日目 デリーにて

想像通りの重厚な建物。国宝を収める器にふさわしい威容である。

入場料300ルピーには、驚かされたが、それだけの価値は十分なのであろう。

入り口からいきなり、展示物が奥の奥、向こうの端が見えないまで続いている。広い、とにかく広い。まず、その広さに圧倒された。
博物館の全体像がつかめないので、一点一点ゆっくり見すぎては時間が足りなくなると思い、比較的速足で部屋を回っていく。

石板や仏像、ミニアチュール、シルクロードを行き来した絹織物や中国製の白磁、青磁などが無数に展示されている。

展示を見始めて2時間あまりが経過したところで、さすがに疲れてしまい、ソファに座り込む。
まだ全展示の半分程度しか消化していなかったが、この精神状態ではまともな鑑賞は無理と残念ながら切り上げることにした。

出口へ直行。少し外の空気を楽しもうと、水路に沿って、大統領官邸方面へ歩きだした。

水路にはきれいな白い水鳥が群れている。

大統領官邸の脇を抜けると、広々とした公園に行き当たった。

日本でいうと東京の代々木公園といった趣であろうか。違うところは、周囲が柵でおおわれていないことだ。

親子連れなどが、気ままな姿、格好で遊んでいる。のどかを絵に描いたような光景だ。

私も芝生に横になり、空をあおぐ。なんと気持ちがいいのだろう。

しばらく眠ってしまったようだ。気をつけなければならない。このような場所でも、油断は大敵である。

通りには、時折、バスが通る。どのバスも鈴なりの人、人、人である。磁石に蹉跌が吸い付けられているような器用な乗り方だ。

私もこれに挑戦してみようかと、ふと思った。今晩乗るバスは座席指定のリムジンだが、鈴なりバスは、一種のインドの文化。経験しておくに損はないと思ったのだ。

さっそく最寄のバス停で、バスを待つ。行き先は、とりあえずどうでもよい。鈴なりにしがみついても、たいした距離を移動できないことは初めから分かっていた。

さて、来た。

バスは止まろうとしない。ただ速度を緩めただけだ。一緒に待っていた男たちと同時に乗車口のパイプをかろうじてキャッチ。足場は片足のみ。きつい……。荷物がなければ何とかなったろうが、きょうに限って荷物はフル装備である。

3分持たなかった。バスの速度が緩んだところでパイプから手を放した。もちろん、お金は支払わなかった。というか、支払えなかった。まぁ、いいだろうと自分を納得させた。

降りた場所は、まだ公園の敷地から離れておらず、私が寝転んだ場所が遠くながら、確認することができた。

15時半。いい時間だ。ここからコンノート・プレイスのバスターミナルまで歩いてちょうどいい時間になるだろうと、ゆっくり歩き始めた。

インド紀行(22)髭の大男と一泊バスの旅

インド滞在3日目 デリー→スリナガル

バスターミナルには、16時半に着いた。出発30分前。計算通りだった。

目当てのバスも既にスタンバイしていた。

最高級とは言わないが、日本ではよくあるタイプのリムジンバスだった。

このバスならそれなりに快適な移動になるのでは、とバスを勧めてくれたマイルスに内心感謝した。

さっそくバス内へ。チケットの座席指定を見ると、なんと一番前。これは幸運なことなのか、不幸なことなのか、どちらともつかない中途半端な心持でカメラバッグを網棚に上げた。リュックは、荷物庫へ。

座席は7割ぐらい埋まった。私の横は幸いにも空いている。このまま誰も来なければ、比較的快適な空間が保てるのだが……。

出発時刻5分前。

ドライバーがエンジンをかけたその時、大柄な男が乗り込んできた。白いクルターとパージャーマ(インドの民族服)を着ており、顔は濃い髭に覆われ、眼光鋭い。

ドライバーは、男のチケットを見るなり、私の隣の席を指差した。

思わずギクリとなった。

よりによって、この男が隣か。2、3時間ではない、1泊2日の旅である。正直、かなり萎えるものを感じてしまった。

隣に座った男は、私の存在が眼中にないようで、終始無言であった。取り付く島がないとはこのことだろう。

私もすぐに話題を見つけることをあきらめた。第一、英語が通じるとも限らない。

まもなくバスは定刻通りに出発。

眠ってしまえばこっちのものだとばかりに、眠りの体制に入った。そして実際の眠りに入るまでにさして時間がかからなかった。

既に消灯されたバスは、順調に運行しているようだった。

ただ、横の男は、とても窮屈そうであった。リクライニング付きといえど、二メートルに近い身長を持て余すように、体を縮めて眠っていた。

少し気の毒になった。かといって、私が彼にできることは何もない。仕方なく、眠りを継続した。

次に目覚めた時は、既に周囲が明るくなっていた。風景から、山岳地帯に入っていることがわかった。

目指すスリナガルはカシミール州の州都。周囲を山に囲まれた美しい湖畔の町として、人気があった。現在は、インド、パキスタンの関係悪化によって、 外務省から一部退避勧告が出されている状態だという。どうりで、「地球の~」にスリナガルの項目がすっかり削除されている。残念なことだ。

私と大男は相変わらず一言も口をきかず、ひたすら前方の景色を見つめていた。

朝の8時ごろだったろうか。バスが突然、道の脇に入り、小さなレストラン(というにはあまりにひなびた感じの)前で停車した。

どうやら、ここで食事休憩をとるようだ。

やっと体が伸ばせる。とにかくそれがうれしかった。もちろん、用も足したかった。

私は真っ先にバスの外に出て大きく伸びをした。

インド紀行(23)髭のパキスタン人、突如話し出す

インド滞在4日目 デリー→スリナガル

私が二度三度と伸びをしていると、隣の大男もバスから降りてきた。そして私に何かを言う。
どうやら付いてこいということらしい。
不思議に思いつつも、男に付いていく。

すると男は、レストランのテーブルにつき、私にも座れと。私に聞くまでもなく、何かを注文をしてしまった。

私は戸惑いながらも、これが彼のやり方なのだろうと思い、その行為(好意?)を受け入れることにした。

出された料理は、カレーだった。しかし、2日前にデリーで食べたそれとは、まず見た目から全く違うものだった。明らかに粉っぽい。

男は、迷うことなく、右手でカレーとライスを混ぜ、黙々と口に運んでいく。うまいともまずいとも言葉を発することはない。

私は、周囲を見回し、全員が手で食べていることを確認し、真似て一口食べてみた。

う。これがまさに本場のカレーの味なのであろう。香辛料の塊というべきか、まさにびっくりな味であった。

男は、マイペースで食べ続ける。私は、彼の半分以下のペースで口に押し込んでいく。

食べ終えた男は、初めて私に話しかけてきた。とはいえ、やはり男は英語が話せなかった。この後の会話は、身振り手振りによる会話の流れと解釈してほしい。

お前は中国人か?

いえ、日本人です。

そうか、日本人なのか。

はい、あなたは。

俺はパキスタンだ。これから家に帰るところだ。

そうなんですか。

そうだ。ジャンムーで降りて、バスを乗り換える。

ああ、なるほど。

食事を終え(支払いは割り勘)、再びバスに乗り込む。

その後は、彼と私の会話は続いたが、ジャンムー到着は、それからさほど時間がかからなかった。

私に何かを語りかけながら、男はバスを降りていった。想像だが、「よい旅を」という意味のことを言ってくれたと思っている。結局、短い間だったが、髭男との交流は、不思議な余韻を残した。

ジャンムーからスリナガルまでは、まだ100キロを超す道のり。しかも山道は次第に険しくなる。
ただ、パキスタンが降りてくれたおかげで、空間的ゆとりが出来たのはありがたかった。

Yさんも話していた、美しい町・スリナガル。どんな光景で楽しませてくれるのだろう。

山道を登るバスの中で私の期待は大きく膨らんでいった。

インド紀行(24)強烈な甘さのチャイに癒される

インド滞在4日目 スリナガルにて

スリナガルのバスターミナルに到着。

1800メートルと標高が高いだけあって、夏というのに肌寒い。

ターミナルの広場の片隅にチャイを飲ませてくれる店があったので、一杯注文。若いお兄さんによる見事な茶さばきで、熱々のチャイが出来上がった。

ステンレス製のカップになみなみと注がれたチャイ。熱さが金属を通して指に伝わってくる。やけどをしないようにと、慎重に口に運ぶ。
一口すすると強烈に甘い。しかし、うまい。この熱さと甘さこそ、チャイのうまさの真髄なのだろうことは、一口で分かった。

自らの手で口にした、初めてのインドの味。格別だった。

ほっと一息である。2日がかりのバスの疲れがチャイの甘さに溶けていくような気がした。
そしてタバコを一服。まさに至福のひと時である。

チャイを飲み終え、ターミナルに併設されていた観光案内所を訪ねてみる。今晩泊まる宿を探さなければならない。

スリナガルに泊まるなら、湖に浮かぶハウスボートと、Yさんからも勧められていたので、その希望をスタッフに伝えてみる。ナギン湖がいいか、ダル湖がいいか聞かれたが、検討が付かないので、眺めがいい方と言うと、じゃあ、ナギン湖がいいですよということだった。

ナギン湖は、すぐ目の前にあった。地図を頼りに、湖畔沿いを歩き、紹介されたハウスボートを目指した。湖岸にずらりと何十、いや何百?もの船が並んでいる。壮観かつ美しい眺めだ。

紹介されたボートが見つかるだろうかと思いつつ、これだけあれば紹介されたところでなくとも、どこでもいいだろうという気もしていた。

しかし、意外にも目当てのボートは簡単に見つかった。ボート上で何やら作業をしている男がいたので、○○○というボートはどこかと聞くと、ウチだという。
口ひげを生やした若い頃の志村けん似のその男は、表情も変えずに、船と湖岸をつなぐ渡し板を渡ってくると、私のカメラバッグを取り上げ、さっさと自分のボートに入っていってしまった。
私は、本当に紹介されたボートなのか疑わしく思ったが、まあいいか、嫌だったら、断ればいいと、不安定な渡し板を慎重に渡った。

船内の通された部屋は、やや香が強すぎることを除いては悪い印象を受けなかったので、荷物を下ろすことにした。一泊二食付。値段的にも自分の中ではまずまずだった。

部屋の外から、インドの歌謡曲であろう賑やかな音楽がかなりの大音量で聞こえてくる。ボートのほとんどがそれぞれラジオを付け流しているようだ。音が重なり合うので、心地よいとはいえず、どちらかというと騒音に近い。
荷解きをし、くつろぎの体制を整えると、さすがに強行夜行バスの疲れが出てきたのか、眠くなる。

しばし横になる。ラジオの騒音は相変わらずだったが、あまりの眠さに、騒音も次第に子守唄になって眠りの中に落ちていった。

インド紀行(25)体めりこみ耳冴える

インド滞在4日目 スリナガルにて

不思議な夢だった。いや、もしかすると夢ではなかったかもしれない。

まどろみとともに、私の体はどんどん重くなっていった。そして、体が地面(といっても船底だが)に沈み込んでいくような、めり込んでいくような感覚。

しかも、耳が異常なほど冴えている。さきほどまではラジオから流れ出る音楽しか聞こえなかったのに、子どもの笑い声、叫ぶ声が鮮明に聞こえてきた。 その声、はるか1キロくらい先から聞こえてくるのだ。まるで耳がその子どもたちの声だけをピンポイントでつかまえてくるような。

夢の中では、その子どもたちの会話の内容まで分かっていたような気さえする。
次第に子どもたちの声は遠ざかり、代わりに例の大音量が戻ってきた。

目覚めた私はすぐに起き上がることができなかった。事実、夢で見たように、異様に体が重く、めりこんだ感覚がまだ残っていたからだ。

私は深いため息をついた。緊張のせいで相当疲れがたまっていたのだろう。いかにも髭のパキスタン人とのあいのりバスの旅は、あまりにも気疲れがした。

さて、どうするか。当面の予定を立てておこうと考えた。

レーを目指すことは明確だった。レーとは、ラダック地方の中心都市で、ヒマラヤ西端に位置するチベットの仏教文化があふれる街。山岳地なだけに、交通の便が悪く、時間的にゆとりがないと踏み入れられない辺境の地。
私はどうしてもここを訪れたいと思っていた。

インドの発祥でありながら、根付かず、東方に伝播して花開くことになった仏教。その仏教がインドにおいても、細々ならがら息づいているラダック。仏教はなぜ辺境に追いやられてしまったのか、なぜこの地で受け入れられたのか、はかねて興味の的であった。

ガイドブックによると、レーへのアクセスは二通り。一つは飛行機。もう一つはバス。私はバスで行くと当初から決めていた。飛行機は速いが高すぎる。 バスにも二通りあって、一つはリクライニング付きのデラックスバス。もう一つはいわゆるオンボロバスだ。これも私は迷わずおんぼろバスツアーを選ぶことに した。時間はたっぷりある。それに、できるだけ現地の人たちが普通にたどる道を自分もたどってみたいという思いもあった。

そこまで考えると、急に空腹感が襲ってきた。そういえば、このハウスボート、食事付きだったよな、と思いつつオーナーに尋ねようと、船上に上がろうとすると、いきなり黒い塊が転げ落ちてきた。

私は思わず飛びのいた。黒い塊の正体は、子どもだった。一人、二人、三人、次々と降りてきて、私に笑いかける子もいれば、私のことが全く視界に入っていない子もいる。計4人がなだれのように通り過ぎ、奥の部屋へ消えた。

どうやら私の部屋はオーナー一家の部屋への通り道になっているようだ。う……ん。これもインド旅の醍醐味かと自らを納得させ、もう一度、船上に上がるはしごに手をかけた。

インド紀行(26)豆料理ダールにうーん…

インド滞在4日目 スリナガルにて

はしごを上がろうとすると、またもや頭上に黒い塊が。

「また子どもか」とはしごから身を引くと、今度は口ひげの志村オーナーが降りてきた。

「お腹が空いたが、夕食は何か?」と聞くと、志村オーナー、「ダールだ。今、用意してる。もう少し待ってくれ」という。

ダール……何だろうと思い、ガイドを見る。豆スープのことだと書いてある。日本でいえばみそ汁にあたるポピュラーな料理だとも。なるほど、それは楽しみだ。

それから待つこと1時間。さきほど上からなだれてきた子どもたちが私の食事を運んできてくれた。

「ダンニャワード(ありがとう)」

お礼を言うと、子どもたちは照れくさそうにしていたが、いつまでたっても、その場を立ち去ろうとしない。

「チップでもあげないとまずいのかな」などと子どもたちの様子をうかがっていると、「早く食べろ」という仕草をする。

「そうか、食べるところを見ていたいのか」と私も納得。

チャパティーをちぎり、スプーンでダールをすくい乗せて、口に運んだ。チャパティーは焼きたてだった。

「おいしい!」

日本語だったが、子どもたちには私の表情から十分通じたようだった。子どもたちはうわっと笑った。そして私の言葉を繰り返した。

「おぃしぃ」「おぃしぃ」「おぃしぃ」

口ずさみながら、子どもたちはオーナー宅へ消えていった。

再び一人になった私は、ゆっくりと味わいながら2種類のダールを交互に食べてみた。

先ほどはチャパティーの焼きたてに思わず感激し、「おいしい」と叫んだが、ダールについては、微妙な感じ。決してまずくはない。しかし、「おぉ、うまい」の言葉は出てこない。何か物足りないというか、なんというか。
豆だけで作られた料理ゆえ、味があっさりしすぎている。つまりはベジタリアン向きの料理だ。そのころ私はまだ若かった。

焼きたてチャパティーは完食。ダールは残念ながら、2つとも半分以上残してしまった。「おいしい」といった手前、子どもたちに申し訳ない気がしてならなかった。

実際、食器を下げにきた子どもたちは、私が残しているダールを見て、気に入らなかったかと目で聞いてきた。

言い訳が見つからず、手を合わせ、「ゴメン!」と謝った。

すると子どもたち、またうわっと笑い、「ゴメン」「ゴメン」と真似をする。

またもや子どもたちは「ゴメン」「ゴメン」を繰り返しながら、食器を手に手にオーナー宅へ姿を消した。

インド紀行(27)ダル湖でゴンドラ遊覧

インド滞在5日目 スリナガルにて

午後、スリナガルにあるもう一つの湖、ダル湖へ出かけてみる。街には、警察官や軍服の姿が目立つ。パキスタン情勢や自治権による紛争の影響なのだろうか。

ただ、彼らからはどうも緊迫感が感じられない。地べたに座り込み、タバコを吸い、同僚とひたすらしゃべり続けていて、外国人である私に一瞥もくれようとしない。

やがて、視界が開け、ダル湖に出た。こちらの湖には、観光用のゴンドラがたくさん並んでいる。

さあウチのに乗れ。さあこっちだ。いやこっちだ。

例によって客の争奪戦である。普通なら値段交渉をするところだが、その日の私はなぜかそんな気分ではなかった。

少し離れたところに停まっていたエンジと白のストライプのゴンドラに目が止まった。

私はそのゴンドラを呼びとめ、すぐに乗り込んだ。

船頭の若者は、不思議そうな顔をして、なぜこのゴンドラにした?と尋ねてきた。

「この色が好きなんでね」と船の塗装のエンジ色をトントンと指さした。

若者は、ふーんと分かったような、わからないような顔をして、さおをさしていた。

私はポケットからリングを取り出し、少しの間、太陽にかざして眺めてみた。船頭は、「リングか?」と聞いてきた。

私はうなずきざまに腕を振りかぶり、リングを湖に投げ入れた。

船頭は、声なく、「どうして?」という表情をした。

私は何も答えず、ただ、湖面を見つめていた。

すると、彼は少し遠くまで行ってみよう言い、予定の30分大幅に越えて漕ぎ出してくれた。私の気分を察してくれたのかもしれない。

湖岸に帰ってきたゴンドラを降りがけ、私は彼が示した額の2倍を支払った。彼は困惑気味だったが、彼の気持ちがうれしかった私はどうしてもそうしたかった。

リングは湖の中に消え、私にとっては実にさわやかな、何か吹っ切れたような気分が残るゴンドラ遊覧だった。

さて、次なる目的地、レーへ向けての準備開始だ。

私はその足でバスターミナルへチケットの購入に向かった。

インド紀行(28)土産を購入。船便で日本へ

インド滞在5日目 スリナガルにて

ターミナルの脇にあったお茶屋で、またあの激甘のチャイを楽しもうと歩みを速めると、突然、「こんにちは」と日本語で呼び止められた。インド人に日本語で話しかけられたのは初めてだった。
私に声をかけたのは若い男で手に工芸品とおぼしき木箱を乗せていた。
お土産を買っていかないかということらしい。ターミナルへ急いでいた私は無視して振り切りたいところだったが、男が手にした木箱には思わず目が止まった。ミニアチュールを彷彿とさせるきめ細かな装飾が施されている。
男からもガツガツした感じを受けなかったので、OKとあっさり承諾し店内に入ってみることにした。

店は予想外に広かった。大小さまざまな工芸品が折り重なるように陳列されている。
私はその美しさにしばし見とれた。素晴らしいのは彩色の施し方である。インド人独特の感性なのか、極彩色を多用しながら、うるさい感じにならないところがすごい。特に紫の使い方が巧みだ。

腕輪、小物入れなど、一つひとつ、じっくり手に取って見て回ったが、私を呼び込んだ男は静かな笑みを絶やさず、私のそばを離れることはない。

私は見事な小物入れを眺めながら、考えた。

さて、物はよさそうだが、果たしてここスリナガルでお土産を買い込むことが得策かどうか。まだ旅も序盤。荷物が増えては困るし、予算的にも、既にオーバー気味だけに無駄遣いはできない。

土産物屋の男は私が迷っていることに気がついたのだろう。荷物は送ることができるよと口を挟んできた。なるほど、その手があるか。聞いて見ると、空輸と船便があって、空輸は速いが料金が高い。船便は時間はかかるが遅く、3か月はたっぷりかかるらしい。

土産を待つだれがいるわけでもないと、迷わず船便で送ろうと決めた。あと問題は予算である。当初から考えていた土産代は5万だったが、できれば半分くらいに抑えたい。そんな私の心をまたもや男が読み取っていた。

「後払いでもOKだよ」

一瞬、耳を疑った。クレジットカード払いではない。当時私はそのようなものをまだ持ち合わせていなかったからだ。口座を持っている銀行を教えてくれれば、後払いでもいいという。

これがこの店独特の商売の仕方なのか、この地方のものなのか、インド全体に通じることなのかは、確かめる余地はなかったが、私はそれならと、気持ちが軽くなり、次々と土産候補を物色していった。

勢いづいた私の買い物はかなりの数になった。日本円にしてほぼ3万円に達していた。やや買いすぎかと思われたが、後払いという安心感が気を大きくさせたのは確かだろう。

手続きを済ませ店を出る。いい買い物ができたと満足だった。仮に品物が届かなかったとしても、お金を払っていないから損はしない。いい土産物屋に行き当たったと内心喜んだ。

バスターミナル到着。明日の朝出発のレー行きのバスチケットを購入。予定通り、リクライニングなしのおんぼろ田舎バスである。チケットを販売する窓口のおじさんは、やめておいた方がいい、後悔するぞと、仕切りにリムジンを勧めたが、私は頑として聞かなかった。

チケットを受け取り、お茶屋でチャイを注文。相変わらず見事な茶さばきだ。紅茶とミルクを煮立てた鍋を頭より遥か高い位置から、金属製のコップへ注ぎ込む。チャイは音と泡を立て、コップに吸い込まれていく。名人芸としかいいようがない。

熱く甘いチャイをすすりながら、さて、明日からがインド旅の文字通り、大きなヤマ場になるぞとつぶやいた。

インド紀行(29=編集中記)結局、土産はどうなったのか

日本へ帰国後の後日談

ここで話の順番は前後してしまうが、スリナガルで買ったお土産は、最終的にどうなったのか、について触れておくことにしよう。

送料が安い船便を選んだ私は、日本に着いてから、その存在をすっかり忘れてしまっていた。生身の体が無事、帰ってこれたことの安堵感が先に立ち、土産物など、ある意味”どうでもよい”存在に追いやってしまっていたというのが正直なところだ。

大学の授業が始まり、インド後遺症からも次第に立ち直り、完全な日本人として生活していた10月も後半に差し掛かったころだろうか、私が利用している銀行から電話がかかってきた。

銀行から電話があるなんて珍しいなと思いつつ、母から受話器を受け取ると、「インドからお荷物が届いております」と、女子行員が困惑気味に話す。それはそうだろう。銀行に海外からの荷物が届くなど、聞いたことがない話だ。

私が買って船便で送った荷物であろうことはすぐに思い出されたが、銀行に着いた意味はすぐには理解できなかった。「すぐに取りにうかがいます」と受話器を置いた。

よく考えてみると、納得がいった。銀行に荷物を送って、引き換えに送金してくれるように店が銀行に依頼する文書でも添えておけば、お金を確実に回収できる。どこの国に限らず、後払いの場合は、このような方法を取っているのだろう。

旅行でスッカラカンになった上、バイトをしていなかった私は、持ち合わせがなく、母に頭を下げて必要金額を借り、銀行へ向かった。

インドなら、このようなハプニングは日常茶飯事。しかし、日本では基本的にあり得ない話なので、正直、私は荷物を受け取りに行くのが気恥ずかしかった。先払いにしておけばよかったと後悔する。

銀行で先ほど聞いた担当の方を呼んでもらう。さすがに一般客とは性質が違うと銀行側も判断したのか、一番はじのカウンターへどうぞと案内された。

カウンターにかけてしばらく待っていると、女子行員の方が、重そうに顔を赤らめて、ダンボールを抱えて私の前に現れた。かなり重かったのであろう、息があがってしまっていた。

「お待たせしました……さきほどお電話させていただいたHです……こちらがインドから届いた品物です。どうぞお確かめください」

相当な大きさのダンボールである。インドで発送する際はさほど大きく感じなかったものが、この日本の銀行という異質な空間の中ではバカが付くほどでかく感じた。

見覚えのある箱。間違いないと思ったが、一応、開けて中身を確かめることにした。抜き取られているようなことがあるかもしれない。しかし、仮に抜き取られていたとしても、いかようにもしようはないのだが。

私が中身を調べている間、呼吸が落ち着いた行員のHさんは笑顔で、「インドはどれくらい行かれていたんですか」「どの辺りがよかったですか」と質問してきた。どうやらインドに興味があるらしい。
私はてっきり、こんなイレギュラーな仕事に腹を立てているに違いないと思っていたので、予想外に機嫌がよかったことにほっとした。

中身に問題がないことが確認できたので、送金の手続きをし、ダンボールを抱えて銀行の玄関を出た。順番待ちをしているお客さんの視線が私が抱えるダンボールに集中していたことは言うまでもない。やはり気恥ずかしかった。

でもよしとしよう。忘れかけていた土産がきちんと届いたのだし、美しい女子行員さんと楽しい会話のひと時を持つことができたのだから。

日本にまで、こんなエピソードをもたらしてくれた、土産物屋のあのお兄さんに感謝しよう。やはりインドのパワーはすごい。

インド紀行(30)山手線方式、大いに受ける

インド滞在5日目 スリナガルにて

スリナガル2日目の朝の目覚めもやはり大音量ラジオだった。

湖がきれいな静かな街……のはずが、この大音量ではぶち壊しではないかといささか腹立たしくなった。
かといって、相手は多勢に無勢。郷に入っては郷に従え。

カメラを持ってデッキに上がってみた。さほど大きくないデッキだが、白い椅子が置いてあり、くつろぐには十分なスペースである。椅子に座り、湖面を眺める。
薄っすらと霧が立ち込め、鏡のように静かな湖は、シスレーの絵のように美しい。行った経験はないので想像で物を言うのだが、アルプス山中の湖の美景を彷彿とさせる、ある意味インドらしくない光景と言えるかもしれない。
唯一違うところは、歌謡曲が大音量で流れていることだけだ。

写真を何枚か収めていると、例の子どもたちがデッキに上がってきた。整列して、すました顔をしている。明らかに写真を撮ってほしいという顔だ。
一枚撮るが、すまし顔ではつまらない。

笑顔を撮りたい。どうやって笑ってもらえるか。

そういえば、きのう、日本語にいちいち反応していて笑っていた。そこで思い出した。向田邦子のエッセーにあった、武田鉄也が記念撮影の時、撮る直前のタイミングで、山手線の駅名を叫び、一同を笑わせたというエピソードを。
果たしてインドで通じるか、試してみた。

ファインダーを覗きながら、「ニッポリ」と叫んでみた。

子どもたち、どっと笑った。

カシャ。

「ウグイスダニ」

さらに笑った。

カシャ。

大成功である。
エッセーでは、武田さんのキャラクターだから出来たことだろうと確かあったが、インドにおいては、私のような一般人であっても、通用した。

私はその成功をうれしく思ったが、それ以上にファインダーがとらえる子どもたちの表情に感動していた。まさに無垢というにふさわしい。

「オカチマチ」

これは大いに受けた。中には腹を抱えて笑う子もいる。

そんな子どもたちを85ミリのファインダーからのぞいていた私はわけもわからず泣けてきた。

「今度は、鬼ごっこにしよう」

私は日本の古典的な遊びを子どもたちに教え、しばし興じた。

後に顔を合わせた志村オーナーの不機嫌そうな表情からすると、デッキでの鬼ごっこは下に響き、かなりうるさかったに違いない。

けんさん、うるさくしてごめんなさい。

いいんだよ~。

インド紀行(31)おんぼろバスの旅始まる

インド滞在6日目 スリナガル→レー

翌日、早く目が覚めた私は、朝もやに包まれたデッキに上がってみた。
この美しい風景とも、とうとうお別れだ。目に焼き付けておこうと私はなるべくゆっくりゆっくり、惜しむようにタバコを吸った。

荷造りをして、出発。久々のフル装備に足がよろめきそうになる。すると、志村オーナー、また何も言わないまま、私の肩からカメラバッグをさっと奪い 取り、渡し板をさっさと渡ってしまった。取り残された私は、奥さんと子どもたちに別れのあいさつをし、ゆっくりと渡し板を渡った。
子どもたちとは、姿が見えなくなるまで手を振って別れを惜しんだ。

志村オーナーはずいぶん先まで歩いて行ってしまっていた。どうやらターミナルまで見送ってくれるらしい。ぶっきらぼうだが、いいところのあるオーナーだ。
だが、この人と話すことはまずない。どうしても話題が見当たらないのだ。
無言のまま歩く。

ターミナルに着くと、志村オーナー、私にバッグを渡すなり、満面の笑みを浮かべたのだった。これには驚いた。こんないい顔ができる人だったんだ。言葉を失っていると、「じゃあ」と言うなり、オーナーすたすたと去っていってしまった。

最後まで正体のつかみにくい人だった、志村オーナー。

さて、自分が乗るバスはと探すが、とにかく台数が多いのですぐには見つからない。運転手に聞いても、他のバスのことは全く分からないと首をすくめる。仕方ない、自力で探すしかないと、うろうろしてみると、ようやく目当ての番号を札に掲げたバスを発見。

3輪バスである。まさにかつての日本の田舎の象徴だったバスそのものである。

とりあえず、前の方が眺めがいいかという単純な理由で、席を確保。シートは思った以上に硬い。むき出しの木のシートではないが、クッションはないに等しい。当然ながらリクライニングは付いていない。この座席で丸2日間、山道に揺られて果たしてお尻がもつのかどうか。

考えても仕方ないな、とにかくこのバスに乗ってしまった以上、引き返せない。

そんなことを思いつつ、汚い窓ガラスの向こうを眺めていると、いつの間にかバスは走り出していた。

走り出したバスの乗り心地は、予想通り、ひどいものだった。スリナガル行きに利用したリムジンバスと比べると振動が明らかに違う。その振動がシートから直接体に伝わってくる。なかなかの厳しい難行苦行となりそうだ、私は覚悟せざるをえなかった。

車内を見回してみた。シートは、一つの席に一人でほぼ埋まるといういい具合の乗員数である。皆、それぞれ、思い思いの方角を眺めている。

その中で、明らかに周囲とは肌の色の違う人を見つけた。日本人か、それとも中国人、韓国人? いずれにしても、旅行者であることは間違いなかった。

私は窓の外に目をやった。ナギン湖の水面に太陽の光が反射してまぶしい。

秘境レーとはどのようなところなのか。そこに追いやられた仏教はいかに息づいているのか。など思いを巡らせているうちに、私はいつの間にか眠りに落ちていた。

インド紀行(32)日本人ツーリストと出会う

インド滞在6日目 スリナガル→レー

目が覚めた時、バスは既に山道に入っていた。舗装なしのでこぼこ道。しかも狭い。バス同士がすれ違う際は、退避スペースでしばし待たなければならない。その分、余計時間がかかる。

政情の関係だろうか、すれ違う車のほとんどは軍用車だ。武器や軍事物資を運んでいるに違いない。

走り出して数時間経つと、標高が相当高くなってきたのか、多少の息苦しさを感じるようになってきた。山道の傾斜もきつくなっているとみえて、エンジンのうなり声が尋常ではない。こんな調子で果たして2日間持つのだろうか。

グガァ、グガァ……

それまで何とかあえぎながらも坂道を登ってきたバスのエンジンが、それまでにない異常音を発した。

グガァ、グガァ……
グガァ、グガァ……

ギアがはまらず、エンジンが空回りしている感じ。運転手は懸命にギアを入れようと試みるが、バスは一向に進んでくれない。運転手はあきらめ、ハンドブレーキを力いっぱい引くと、私に向かってお手上げのポーズ。私が不安げに見つめていたことをどうやら気づいていたようだ。

バスの助手と運転手はバスを降り、ボンネットを開けてエンジン周りを指さしてはお互い何かをわめいていた。
明らかに何らかのトラブルが生じたようだ。

助手が戻り、状況の説明を始めた。英語ではないので、意味がわからない。が、状況からして、エンジントラブルゆえ、しばらく修理に時間がかかるので、待っていてほしい、という内容に違いない。

乗客たちは仕方ないという顔をするものの、不満を口にすることはなく、バスを降りて、三々五々、自由に散っていってしまった。

車内は暑く、硬いシートに座って待つのは苦痛なので、外の空気を吸おうとバスを降りてみた。
山の斜面に腰掛けている東洋人が目に付いた。きのうバスの乗客で見かけた東洋人とおぼしき男に違いないと思った。
私はその男に英語で話しかけてみた。

「Where are you from?」
「Japan.」

何だ、日本人だったのか。ほっと安心する。
そういえば、インドに来て、ニューデリーでお世話になったYさんを除いて、初めての日本人の接触である。

野球キャップをまぶかにかぶり、ひさしの下は黒ぶちメガネ。身長は私と同じ170センチ前後だが、私よりはやや痩せているだろうか。年齢の頃は30歳ちょっと前くらいに見える。

私も彼の横に腰を下ろし、しばしバスの修理作業をぼんやりと眺めていた。

私たちは暇に任せて、今回の旅に関するさまざまな話をした。野球帽の男はSさんといい、ファミレス店長として勤めていたが、インド旅行に際して会社を辞めたのだそうだ。インドの滞在予定期間は1年間。旅はまだ始まったばかりだという。

修理が始まってかれこれ2時間近くが経過しただろうか。出発のメドが立ったようだ。助手が乗客に向かって戻って来いと、叫んでいる。散らばっていた乗客は不思議にもあっという間にバスに戻ってきた。

ギアの入りもスムーズになり、バスの走りは快調になった。しかし、シートの硬さとでこぼこ道から伝わってくる強烈な振動は変わらない。

傾いた夕日は運転手の横顔とヒマラヤの尾根を赤く染め、おんぼろバスは、あえぎあえぎ急な山坂を登っていった。

インド紀行(33)交番で一夜を明かす

インド滞在6日目 スリナガル→レー

標高5000メートルの山岳道は、日本ではお目にかかれない風景の連続だった。特に赤というより紅色に近い空に次第に山並みが溶けていくさまには目が釘付けになった。

完全に日が落ち、窓の外は闇の世界となった。それでもバスは走り続ける。

そういえばきょうの宿泊はどうなるのだろう、と考えた。このままノンストップで走り続けるのだろうか。この硬いシートではさすがにきついと思ったが、かといってこの山中にまともな宿泊施設があろうとも思えない。

うつらうつらしたり、急ブレーキで目覚めたりとの状態が続いた。

目が覚めて、外を眺めると、どうやらどこかの村落に到着したようだ。休憩時間をとろうというのか。

すると助手が何かを話し始めた。これまた英語ではないので、後ろにいたインド人が英語が話せたので、聞いてみると、この村落で仮眠をとってもらうから、そのつもりでいてほしいとのこと。

なるほど、それは助かるが、一体どこに泊まるというのか。

やがて、エンジンを止め、助手が乗客に降りるように促した。

乗客一行が通されたのは、バンガロー風の作りの建物。板敷きのワンフロアで広さは20畳以上はあったろうか。

ここで眠ってくれという。いきなり眠ってくれと言われても……と思っていると、私と一緒にバスから降りたSさん、さっさと寝袋をリュックから出し、眠る用意を始めた。

他の乗客たちもそれぞれ防寒具を敷いたり掛けたりとさっそく眠りの体制をとり始めた。この状況に慣れているようだ。

私も寝袋を取り出し広げ、Sさんの隣で横になった。真夏とはいえ、標高4000メートル超の高地。さすがに冷え込む。まぶたを閉じながら、迷いながらも寝袋を持ってきたことは正解だったと安堵した。

隣のSさん、疲れていたのか、あっという間に寝入ってしまったようで、かすかないびきを立てて眠っていた。

私は寒さもあってすぐに眠りに付くことができず、今の状況について思いを巡らしていた。

人の声で、目が覚めた。バスの助手が何か叫んでいる。外はまだ暗いようだ。時計を見たら、数時間ほどしか経っていない。本当の仮眠だったようだ。
私とSさんが眠い目をこすって起きた時は、既に周りの乗客は身支度を終え、建物の外に出てしまっていた。
慌てて私たちも寝袋を丸め、用意をして外に出る。建物の看板を見ると何と「POLICE」の表記が。
警察?交番?もちろん、現役として使われているのではないだろうが、何らかの警察関連の建物だったのであろう。逮捕されたわけではないが、初めて警察で一夜を明かした貴重な経験となった。

山並みの麓付近はやや白みがかっており、日の出が近いことがうかがわれる。天を仰ぐと満天の星。これには全く感動させられ、しばらく首をぐるぐると回し、星に見入ってしまった。

既にエンジンがかけられたバスから、助手が私たちを大声で呼んでいる。わかった、わかったと私たちも大きく手を振って合図した。

インド紀行(34)”苦難の報酬”は黄金の絶景

インド滞在7日目 スリナガル→レー

おんぼろバスは相変わらずの大音量を立てて走り出した。日が昇り、辺りが明るくなると、私はその荘厳な風景に完全に心を奪われた。山肌は氷に覆わ れ、その氷壁は天然の彫刻が施されている。そして太陽光の反射によって、氷柱は黄金の輝きを放つ。あまりの美しさに私は圧倒され続けた。

たとえ2日間かかって硬いシートに悩まされたとしても、バスの旅を選択してよかったと心から思った。

目的地のレーに近づいたのか、平地の道が多くなってきたころ、私はある映画の一シーンを思い出していた。
『恐怖の報酬』――イヴ・モンタン主演のフランス映画。油田の火事現場に消火用のニトログリセリンを運搬するトラック運転手たちのサスペンスドラマであ る。数々の危険と困難が彼らを襲う。いつニトロが爆発するか、ハラハラ、ドキドキが最後まで続く。そして、クライマックスに意外な結末が……。50年以上 前の映画とはいえ、ネタバラシはやめておこう。
映画のような苦難があったわけではないが、レーの村落を見ながら、私はイヴ・モンタンと自分を完全に重ね合わせていた。
そして私はタバコに火を付け、ゆっくりと煙を吸い込んでみた。

さあ、いよいよレーに到着だ。先述したように、レーはチベット仏教の文化と風土が息づいた街。観光地化はもちろん免れていないと思うが、そこには自分に働きかけてくれる何かがあるのではないか、という予感が初めからあった。

バスはにぎやかな市場にほど近いバスターミナルに停車した。私はバスを降りると何度も何度も大きな伸びを繰り返した。私に続いて降りてきたSさんは、「疲れたねー。ほんと疲れたー」を私に言うでもなく連発していた。

突然、Sさん、「市場、覗いてみますか」。

野菜・果物、民族服などに混じってTシャツやジーパンなども売っている。かなり充実した市場のようだ。私たちはしばし店先を冷やかしながら私たちの目に珍しい品々に興じていた。

そうしているうちに、Sさん、「バスが着いたようですね」と、顔をターミナルの方に向けて言った。私もそちらに目を向けてみると、確かに大型バスが停まっている。私たちが乗ってきたものとは明らかに違うデラックスなバスである。

Sさん、「ちょっと行ってみますか」。私はSさんの為すままにうなずき着いていく。
私とSさんは市場の人をかき分けターミナルへ。すると、バスの出入り口からそう離れていないところに日本人とおぼしき一団が固まって何かを話していた。

一行は5人。男性2人、女性3人。いずれも若く、私と同じ20代前半だろうと推測した。

Sさん、一行に近づき、何かを語りかけた。私はやや距離を置いてSさんの行動を眺めていたが、Sさん、突然私を呼ぶような仕草をし、「今、同じところに泊まりませんかって相談していたんですが、どうですか?」と聞かれた。

ふいを付かれたということもあり、私はそこに関する明確なプランを何も持ち合わせていなかった。私の悪い癖として、頼れる存在が近くにいると途端に自立心を失う傾向がある。

「ああ、いいですねー」と思わず口走ってしまった。

やな予感が胸をよぎる。冷静になれよ、ミー。

実は私は団体行動が苦手。とりわけ同年代の若い人が大勢いる場合は打ち解けるのに時間がかかるタイプ。
しかもニューデリーを出る時、一人旅の完遂を誓ったこともあり、本来なら断るべき状況ではあった。

しかし、それ以上、何かを言うタイミングを失い、Sさんの「○○ゲストハウスというところがよさそうですって、いいですか」と私に顔だけを向けて同意を取り付ける。
このように状況に流されるまま、○○ゲストハウスでの見ず知らずの若者たちとの合宿が決定してしまった。

インド紀行(35)ギリシア彫刻の瞳に見とれる

インド滞在7日目 レーにて

○○ゲストハウスを知っていたツバ広の帽子をかぶった男性の一人は、「じゃあ、行きましょうか」と一行を引き連れて歩き出す。私は断るなら、このタイミングが最後だと、勇気を振り絞ろうとしたが、ダメだった。自然、足は一行と歩調を合わせていた。

Sさんは2人の男性とすっかり打ち解けたように話をしながら歩いている。女性陣3人も当然、親しげだ。私一人が一行から少し距離を置いて歩く。

私は歩きながら考えた。このメンバーで何日一緒にいることになるか分からないが、できるだけ早く抜け出すべきだろうと。繰り返すが、私はつきあいの薄い同年代の集団を最も苦手とする。いわゆるノリに着いていけないタイプなのである。つらい思いをすることは自明だった。

一人でいることは全く苦にならない。むしろ好きである。しかし、集団内の孤独はつらい。だれでもそうだろう。私はそれまでの経験上、集団の中で一人、取り残されるという宿命をもっていることを実感していた。

やがて日本によく似た農村風景が広がると、男性は「あのホテルだと思うんですよ」と畑の中にポツンとある白壁の平屋の建物を指差した。

一行が玄関に入ると、ギリシア彫刻かと見まごう美男子が現れた。上背こそないが、鼻筋が通り、瞳はまさにエーゲ海ブルー。アポロンを私は連想した。
ホテルのオーナーの息子。名前は残念ながら忘れてしまった。彼をここではアポロンと呼ぶことにしよう。

ツバ広帽の男性Rさんは流暢な英語でアポロンと宿泊に関する交渉を進めていた。節目がちにRさんの要望をメモにとるアポロンの横顔に私はしばし見惚れていた。それは3人の女性陣たちも例外ではなかったようだ。口こそ出さないが、アポロンの瞳に吸い込まれていることは明白だった。

部屋は3室。部屋割りはだれが決めるともなく、私とSさん、残りの男性2人、女性3人となった。この組み合わせには、私は無論、異論はなかった。

私は少しでも横になりたかった。2日間のおんぼろバスによる強行軍。疲れていないわけがなかった。それはSさんも全く同じだったのだろう。特に私に断るまでもなく、さっさと横になってしまっていた。
私も何も考えることもなく、あっという間に眠りに落ちていた。

起こされて目覚めた時は、周囲はすっかり暗くなっていた。自分を起こしてくれたのは、おばちゃんだった。このホテルの使用人だろうか。色は浅黒く、顔に皺が何本も深く刻み込まれている。典型的なチベットの年配の女性の相なのだろう。

おばちゃん、食事ができたから、食堂へいらっしゃいと伝えにきてくれたようだ。

私とSさんが食堂へ顔を出すと、私たち以外の5人は既にそれぞれ座を占めて、私たちの到着を待っていたようだ。
椅子はなく、床にご当地で織られたであろう色彩豊かな絨毯が敷かれており、そこに皆が座っている。空いた席に私たち2人が着くと、アポロンが簡単に料理の説明をし、食事が始まった。

インド紀行(36)一行はすべて単独ツーリスト

インド滞在7日目 レーにて

食事は大皿に何種類かのカレーの小皿にライスとデザートのヨーグルトなどが並べられたもの。インドでは極めて一般的なスタイルではあるが、これまで 食べた料理の中では最もおいしく感じた。言ってみれば、おふくろさんの味。きっとさきほど私たちを呼びに来てくれたおばちゃんが作ったものに違いない。

すると、そのおばちゃんが食堂に現れた。

「味はどうですか? 口に合いますか?」と女性に向かって話しかけている。

隣にいたSさん、私に小声で、「あのおばちゃんがこのホテルのオーナーらしいですよ」と。

そうだったのか。私は少々驚いた。おばちゃんがオーナーだったということ以上に、あのアポロンがおばちゃんの息子だということに衝撃を受けた。

父親は欧州系の人であろうと推測されたが、ともあれ、この母子が親子であることは、にわかには信じがたかった。その父親の存在が見えないところを思うと、母子のみでホテルを切り盛りしているのだろうか。

食事がある程度進んだところで、一行の仕切り役をこれまでも担ってきたツバ広帽の男性(もちろん室内ではかぶらないが)が声を上げた。

「皆さん、何日になるかわかりませんが、ご一緒することになったのですから、お互いの自己紹介でもしておきませんか」

そう口火を切るや否や、彼はさっそく自分の話を始めた。

「私は京都在住の○○隆介といいます。よければ隆とでも呼んでください。京都の大学の4回生です。私のチャームポイントはこの長い黒髪です。どうぞよろしく」

チャームポイントの部分では、一同軽笑。確かにウェーブがかかった長髪は黒々たっぷりしている。

以下、自己紹介のまとめ。

<男性グループ>
隆介さん(京都の大学4年生)
明男さん(東京の大学4年生)
Sさん(大手外食産業退職。現在無職の28歳。東京在住)
私(東京の大学2年生)

<女性グループ>
智美さん(東京の大学2年生)
慶子さん(家事手伝い23歳。東京都在住)
晴香さん(OL25歳。神奈川県在住)

自己紹介を終えて分かったことは、ここにいる7人はすべて単独ツーリストであったということ。レーに向かう間、支流が本流に流れ込むように少しずつ 合流してきたようだ。これは意外だった。私はバスターミナルで知り合った男女5人の一行はてっきり団体であると思い込んでいた。

その事実を知ると私の気持ちは一気に楽になった。一人ひとりがほぼ平等、対等の関係。孤がたまたま集まった集団。それならやっていけそうだ。

事実、私たちの会話は終始、比較的物静かで、いわゆる学生集団特有の馬鹿騒ぎ的な方向にはついぞ向かうことなく、夕食の時間は過ぎていった。

インド紀行(37)レーの田舎町を散策

インド滞在8日目 レーにて

レー2日目の朝。ホテルの周囲に朝もやが立ち込めている。外に出て思い切り空気を吸う。実にすがすがしい。
きょうはカメラをもってレーの街をゆっくり探索してみようと決めた。

朝食を終えた私はカメラバッグを肩にホテルを出て、気の向くままに歩き始めた。
既にもやはなくなり、陽光に照らされた建物や田畑などがくっきりと輪郭を映し出していた。
そして空を仰ぎ見ると。何という青さなのだろう。紺碧という表現を通り越した濃厚な群青色。宇宙がそこにある、ということを実感させられる。星空もさぞかしきれいなことだろう。

おそらく中心街から遠ざかっていると思われる道をひたすら歩く。観光客が足を踏み入れることがなさそうな素朴な町並みの村落に行き合う。

私はとてもこの町の雰囲気が気に入った。カメラの準備をし、写真を撮り続ける。

すると、突然、賑やかな叫び声が。路地から子どもたちが数人飛び出してきたのだ。私の存在にびっくりしたのか、子どもたちは急に静かになって立ち止まってしまった。
驚かせる形になってしまった私も、どうしていいのか分からず、しばらく立ち尽くしていた。
私はカメラを構え、子どもたちに向けシャッターを切った。子どもたちにとって、写真を撮る行為自体が珍しかったようで、近寄ってきて、カメラを懸命にのぞきこんでいた。

どうせ英語が通じないのだからと、「カメラって言ってね、写真を撮る機械なんだ」と日本語で説明。子どもたちは大きな目を私に向け、真剣に話を聞いている。

「お兄さんはね、日本から来たの。日本だよ」

せめて日本の存在だけでも分かってもらおうと、ニホン、ニホンと繰り返したが、首を傾げるばかりなので、ニッポンと発音を変えてみた。すると、こちらの方がインパクトがあるのか、子どもたちは、「ニッポン、ニッポン」と真似をしだした。

私はうん、うんとうなづき、「覚えておいておくれよ」と子どもたちの頭をなでた。

さて、次は何を撮ろうかと立ち上がると、民家の門に一人の女性が立っていることに気がついた。しかも、こちらの方を見て笑っている。どうやら私と子どもたちの戯れを見ていたようだ。

私はその女性の美しさにまず驚いた。どちらかというと地中海風の薫りがただよう、くっきりとした目鼻立ち。ヒマラヤの奥地でも、こうした顔立ちによく出会うのが、この地方の特徴なのかもしれない。

私は勇気を出して、「May I take your picture?」と語りかけてみた。彼女は英語が分からないようで、目を細めて、私の意図を汲み取ろうとしていたので、カメラを指し示し、その指を彼女にも向けてみた。

どうやら意図が伝わったようで、女性は「私?」と自分の指を胸に当てていた。

「そうそう」

女性は微笑みながらも、首を横に振った。

私はその笑顔を逃してなるものかと、人差し指を上に向け、「一枚だけお願いします」とシャッターを押してしまった。

女性は驚いたような顔をしたものの、仕方ないわね、といった表情を浮かべ、今度はしっかり撮ってよといったポーズをとってくれた。

私はシャッターを数度押したところで、「Thank you!」とお礼を言って立ち去ろうとした。

インド紀行(38)隆介さんから酒宴の誘い

インド滞在8日目 レーにて

立ち去ろうとする私に女性は声をかけてきた。何だろうと思い立ち止まると、女性は家に寄っていかないかという仕草をしている。

私は女性の好意をとてもうれしく思う半面、たやすく好意に甘えていいものかどうか、一瞬、迷った。しかし、せっかくのお誘いである。これも旅の縁と、胸に手を当て、「Thank you so much」とお礼を言いつつ、女性によって開かれた門をくぐった。

通された家の中は落ち着いた雰囲気の家具でしつらえられていた。白い壁に青で統一されたインテリアが印象的だ。
女性のお母さんと思われる方が現れたが、私の存在を驚くこともなかった。ごく自然な振る舞いで、私にあいさつをし、「紅茶をいれましょう」とキッチンに消えてしまった。

私は身振り手振りで女性に、日本という国から来たこと、私は学生だが、休みを利用してインドを旅していること、などを話したが、どうやら話は十分に通じているようだった。

紅茶を入れてくれたお母さんも加わり、その後もさまざまな話をさせてもらった。言葉が通じないのに、どうしてそこまでできたのか、今となってみればなぜかわからない。しかし、言葉の壁を超えるとはよく使われる言葉だが、それは可能だということを実感できた体験だった。

お礼を言い、女性の家を出た時は、既に日が傾いていた。ずいぶん長い時間、お邪魔してしまったようだ。

私は赤く染まった空を見上げながら、日本から来た旅人を快く歓迎してくれた女性とお母さんの心の温かさを何度も何度も思い起こしていた。

ホテルに着くと既に夕食の用意ができていた。それぞれがきょう一日の行動を話していたが、私は昼間の出来事は話さずにいた。苦手だからということもあるが、話さなければならないということもないと思ったからだ。

部屋に戻って一息つくと、Sさん、「いい写真、撮れました?」と私に聞くので、「とっても美しい女性に出会いましてね、写真を撮らせてもらいました」と答えた。

「ほぉ~、それはよかったですねぇ」とSさん。あまり表情を変えないSさんは、どうも心の中が読めない。

私は横になり、きょうの出来事を反すうしていた。

するとドアがノックされ、隆さんが顔を出した。

「もしよかったら、僕の部屋に来ませんか? これが手に入ったんですよ」とお酒を飲むジェスチャーをした。

Sさん、「酒ですか、いいですね。すぐ行きます」。

Sさん、私に「行きましょう。お酒、飲めるでしょ」。

私は気分がとてもよかったので、お酒の飛び入りはむしろうれしかった。でも、どんなお酒なのだろう。インドでは、ましてや高地のレーでは酒は入手困難なはず。一体、どこでどのように手に入れたのか。

そんなことを思いながら隆さんの部屋をのぞくと、既に女性たちもそろっており、私たちのことを待っていた。

インド紀行(39)智美さん、いきなりの号泣

インド滞在8日目 レーにて

酒盛りの準備は既に出来ていた。隆さんはこういう段取りによほど長けていると見えて、おつまみの類までしっかりと用意されていた。

私とSさんが着座すると、隆さんが白いタンクを取り出し、「チャンという酒です。穀物から作られた濁り酒なんですが、試してみましたが、なかなかいい味でした。お酒、飲めない方はいないですかね」。

「飲めない」という声は上がらなかった。

タンクが順番に回され、自分のコップにチャンを注いでいった。全員のコップが満たされると、隆さん、乾杯の音頭をとると思いきや、「Sさん、乾杯をお願いします」。

Sさんの慌てる表情を見たのは初めてだった。

「え、え、なになに。まいったなぁ……うん、うん……ここで出会った奇跡にかんぱーい!」

チャンの味は、日本の焼酎に似ていた。口当たりはいいので、すいすい飲める感じがある。

隆さんがチャンについて、「チャンは度数がそんなに高くないそうなんですが、ここは標高が高いので、酔いが回るのは速いと思います。お酒に弱い人は 飲みすぎないように気を付けてください。ただ、自信のある人はどうぞ、まだたくさんありますんでね」と新しい白タンクを取り出した。

酒宴は次第に盛り上がっていった。とはいえ、だれも騒ぎ出すようなことにはならない。オーナーに内緒の酒宴という事情もあろうが、基本は静かな人々の集まりであることが実感される。

ところがここで予想外の事態に。

それまで慶子さんと何かを話していた智美さんが突然泣き出した。女性2人が懸命になだめるが簡単に収まる気配はない。一体何があったのか。

事情を知っていそうな明男さんに小声で聞いてみた。

「ホームシックみたいです。何でインドなんかに来ちゃったんだろうって、お酒を飲む前も話してましたからね」

私も思った。この人はどうしてインドに来ちゃったんだろうと。

私は智美さんに初めて会った時から、インドと智美さんの間にある違和感を覚えていた。当初は女性たちは団体だと思っていたので、インド好きの2人に誘われてきたのだろうくらいに感じていたが、実は単独行。
智美さんは見かけ、性格ともに典型的なお嬢様キャラ。事実、自分の思い通りにならないことに明確な不満をもらすことが、この2日間の生活から認識されてい た。しかし、その常に不機嫌そうな表情は、性格のみに基づくものではなく、インドに対する嫌悪に占められていることが、ようやく理解できた。

「早く帰りたい。もうインドは嫌」

早く帰るべきだろう。全く同感だ。しかし、ここはレー。こんな奥地に来る前に、どうしてもっと早く気が付かなかったのか。気づいていたなら、どうして行動に移さなかったのか。

チャンによって回りかけた酔いも、智美さんの号泣によってすっかり覚めてしまった。

インド紀行(40)レー脱出作戦がまとまる

インド滞在8日目 レーにて

女性2人が智美さんを抱えるようにして、退席。残された男たちは、しばし言葉を失っていた。

口火を切ったのは、やはり隆さんだった。

「どうしますか?」

「どうしますかって、ねぇ。私たちに何ができますかね」とSさん。

珍しく、明男さんが口を挟む。

「帰りたいなら、帰してあげましょうよ、日本へ」

以下のように男たちのやりとりが続く。

隆介「そう簡単に言うけど、バスはもうこりごりだと彼女言ってたし、飛行機のチケットを取るのも難しいし」

明男「そんなこと言ってたら、俺たちだって、いつまで経っても、ここから帰れなくなる。ホームシックにかかったわけじゃないが、智美ちゃんだけの問題じゃなくて、われわれの脱出計画もきちんと立てておかないと、下手をしたらここだけで1か月の足止めを食うことになる」

私「え、1か月もですか? 授業の開始に間に合わなくなる……」

明男「それは僕たちも同じことさ。遅くとも9月中旬には日本に戻っておきたい。すると、ここは1週間の滞在がせいぜい。となると、すぐにでも帰りの手立てを確保をしておかないと、ズルズル日にちがたってしまう恐れがある」

S「僕はいつまでいても構わないんですが、智美さんは、ちょっと重症のようだから、何とかしてあげましょうよ。飛行機のチケットはどうすれば取れるんですか?」

隆介「確かではありませんが、飛行機の発着場に直接行って、定員以内なら問題ないのですが、定員オーバーの場合はくじ引きになるようです」

S「くじ引き? それはきついなぁ。でも仕方ないでしょ。やりましょう」

隆介「やりましょうって、何を」

S「並ぶんですよ。僕らが」

Sさんの作戦はこういうものだった。
私たち男4人と準備をした智美さんが朝、飛行場へ行く。定員以内であればもちろん、智美さんはそのまま飛行機でスリナガルへ。くじ引きとなったら、5人のだれかが当たりを引けば、智美さんに譲ることができる。

S「どうです? やりますか、やりませんか?」

反対の声は上がらなかった。

隆介さんは、この作戦をさっそく智美さんに伝えるために部屋を出ていった。

あすから寝坊はできないぞ。これも人助けだ、頑張ろうと私は自らに言い聞かせた。

インド紀行(41)バザールで民族衣装を購入

インド滞在9日目 レーにて

深い朝もやがホテルの周囲を包み、まだ夜も完全に明けきらない早朝、計画通り、私を含む4人の男と智美さんは飛行場に向かって歩いていた。

智美さんは終始無言である。昨晩の号泣の気恥ずかしさによるものに違いない。それに加え、自分のために男たちが動いていることに対して、どう言葉に表したらいいのか、探しあぐねているという感じも受け取れた。

Sさん、智美さんに「寒くないですか? 高地だから寒暖の差が激しいですからね」と話し掛ける。さすがに年の功というべきか、女性へのさりげないアプローチは見事だ。

智美さん、「大丈夫です。ありがとうございます」と、Sさんの言葉かけのみならず、私たち全員への感謝の意を尽くそうとしているように聞こえた。

30分ほど歩いて、飛行場に到着。既に30人ほどがチケットを求めて並んでいる。倍率は4倍から5倍になりそうなことは明らかだった。

出発の1時間前になって、いよいよくじ引きが始まった。結果は……全滅だった。智美さんはきょうも足止めとなってしまった。がっかりした表情だったものの、智美さんの目に涙はなかった。私はほっとした。

飛行場を離れた一行は、まっすぐ帰るのももったいないと、バザールに立ち寄ることにした。ここで皆、ばらばらになり、思い思いにお店を見て回った。

私はインドに来てからぜひしてみたいと思っていたことがあった。それは民族衣装であるクルターとパージャマーを着てみたいということ。しかし、滞在 の短い町ではそれも難しいのだが、ここレーには、否応なしに長居せざるをえない。いい機会なので、作ってもらうことにした。注文から丸2日でできるとい う。
さっそく採寸をしてもらった。色はブルー。青と水色の中間色の色合いがなかなか気に入った。

衣装が出来上がったら、それで町歩きをしてみようと思った。そうすれば、よりインドが身近な存在として感じられるはずだ。

私がホテルに着くと、アポロンが出迎え、「聞いたよ、せっかくの努力が実らず残念だったな」と慰め言葉をかけてくれた。繰り返すが、このアポロンは本当にいい男である。話す表情もとても絵になるので、ついつい見とれてしまう。

しばらく二人の話は弾み、私は写真を撮るなら、どのポイントがいいかなどについてアポロンからアドバイスを受けた。その中で、私がレーの空の青さに感動したことを話すと、彼は「それじゃあ、ウチの屋上でゆっくりと眺めるといいよ」と言う。

「屋上? 屋上があるんだ」――私は知らなかった。アポロンに上り口を教えてもらって屋上に上がってみた。屋上はかなり広く、何台かのデッキチェアが置いてある。

「これはいいね。ありがとう」とアポロンに例を言い、一度部屋に戻って、タオルとサングラスを取り出し、屋上に戻った。

さて、どのデッキチェアにするか、見て回ろうとすると、さきほどは気づかなかったのだが、一つのチェアにだれかが既に横になっている。

「だれだろう。女性のようだな」と思いつつ、近寄ってみると、けさ方、レー脱出に失敗した智美さんその人だった。

インド紀行(42)智美さん、突然の”改心”

インド滞在9日目 レーにて

智美さんは日焼けを防ぐため、帽子を顔に乗せて眠っていた。表情は分からなかったが、やはり朝方の失敗のダメージが尾を引いていることは明らかだった。

私は声をかけるべきかどうか迷った。私はSさんのような如才はないし、ましてや女性を慰めるような言葉を全く持ち合わせていなかった。

しかし、彼女は私の存在に気づいているかもしれない。不審に思われないためには、存在証明をする必要はあると感じた。

「智美さん、……です。こんないい場所があったんですね。さっき、アポロンに教えてもらったんですよ。空がよく見えるよって」

智美さん、ああ、……さん、と帽子をとり、まぶしそうにしながら、体を起こし、「けさはすみませんでした」と頭を下げた。

私は、「いいえ、こういう時はお互い様ですよ。帰りたい気持ち、よく分かりますよ。あしたも行きましょう、飛行場」。

すると智美さんは首を横に振って、「もういいです。成り行きで構いません。しばらくここにいることにしました」と話す。

予想外だった。何の心境の変化なのだろう。あのかたくなとさえ思われた私たちに対する態度も、落ち着き、柔らかい感じに変わっていた。

「ご迷惑をおかけしてごめんなさいね」と私に向かって言うでもなく、つぶやくと、また帽子を顔に被って寝転んでしまった。

相変わらず取り付く島がないなと思いつつ、私はとりあえず、智美さんの心境の変化を喜んだ。つらく苦しいインドの思い出だけ持ち帰るのでは、あまりにも悲しいからだ。

私は智美さんのいるチェアから一番離れたところの椅子にタオルを敷き、やや思い切り悪く寝転んでみた。

すごい、素晴らしい空の色の美しさだった。あまりにも濃いブルー。月が見えるのはもちろんだが、星ですら昼間に見えそうな深い深い紺碧の空に、吸い込まれそうな気がした。

私は思った。智美さんもこの深い空を仰ぎ見たに違いないと。そして感動したのだろう。インドには、こちらが求めれば求めるだけの、いやそれ以上の何かを与えてくれるものがある――智美さんもそう感じ取ったに違いない、と私は勝手に想像していた。

そんなことを考えているうちに私はいつしか眠ってしまっていた。どれくらいの時間が経ったのだろうか。やや太陽が傾きかけている。振り向くと、当然ながら智美さんの姿はなくなっていた。

日に当たりながら眠ってしまっていたせいか、体がぐったりし、かえって疲れてしまった感じが残る。

さて、明日は一日、写真撮影に出かけるつもりだ。カメラの手入れでもしておくか、と私は椅子から起き上がり、下へ降りていった。

インド紀行(43)レー王宮の迷宮に迷い込む

インド滞在10日目 レーにて

智美さんの”改心”は、皆を驚かせたとともに、安堵させた。明日からの飛行場詣出も、当面中止となった。

事実、智美さんの表情が明るい。女性グループの会話はぐっと賑やかになった。

私たち7人はこれを機にかなり打ち解け、トランプ遊びなどに興ずるようになった。まるで大学のクラブ合宿そのものだった。苦手と思っていた私だが、 意外にも彼らには溶け込むことができた。とりわけ、トランプゲームではなぜか私が無敵を誇り、強運の……との評判が定着してしまった。日本では縁のなかった 強運だが、インドは私によほど水が合っているのだろうか。確かに日本にいる時とは違う運気のようなものがあった。

このインド、実は自分に極めてフィットした土地なのかもしれない。となると、よくいるバックパッカーのように毎年インドを放浪しにくる若者のように自分もなっていくのだろうか……。

翌日、私はカメラバッグを抱え、旧レー王宮を目指した。旧レー王宮は街の北部に位置し、岩山の斜面に建てられた9層からなるレンガ造りの城。ラサのポタラ宮殿は、このレー王宮をモデルとして建造されたといわれている。

王宮にしがみつくように民家が所狭しと建ち並ぶ。王宮にたどり着くには、この民家の間を縫う小道を抜けていかなければならない。

もちろん、王宮の方向を示す標識などあろうはずがない。勘だけを頼りにひたすら坂を上っていく。しかし、まさに迷宮。自分がどこにいるのか、どの方向に向かっているのか、無感覚にさせられる。

重いカメラバッグが肩に食い込む。体力も限界に近づいてきた。一休みしようと座り込み、タバコを一服した。

「無理かな、王宮は拝めないか」と煙を吐いた時、ふと視線を感じた。その方向に顔を向けると、僧服を着た男の子(そう12、3歳くらいだろうか)がこちらをじっと見つめていた。

言葉は通じないだろうと思い、やあ、と手をかざしてみた。子どもはどう反応していいか困った表情をした。私はとっさにカメラを取り出し、彼を撮影した。彼はさらに困った顔をした。

英語が通じるとは思えなかったが、私は子どもに聞いてみた。

「王宮へ行くにはどうすればいいのかな」

王宮を指さしたので、その意味をくみ取ってもらえたようだ。僧服の子は黙ったまま歩き出した。私は彼の意図がすぐ読み取れたわけではなかったが、彼に付いていってみようと腰を上げて彼の後を追った。

彼はすごいスピードで坂を上っていく。危うく見失いそうになるたびに、「待って」と彼に声をかけた。

すると彼は突然、ある僧院に入り込んだ。

「ん、王宮を案内してくれると思ったのは間違いだったか」と思い、彼に続いて僧院に入ると、彼は私を待っていたかのように、本堂の方を指差した。僧院の建物は朱色を基調とした明るい色彩が施され、しっかりとした手入れをされていることがうかがわれる。
僧院の前に、大きな円筒状のもの、赤ちゃんが持つガラガラを巨大化させたものが据えられており、彼がそれを回し、両手を合わせて祈りを捧げた。私も彼の真似をし、ガラガラを回し、合掌をした。しかし、私の心の中は意外なほど空虚であることに気が付いた。

なぜ、ここまで心の中は空っぽなのかの理由を私はすぐには見出せなかった。その理由が分かるのは、インド旅も終盤となってからだった。

インド紀行(44)僧服の子どもは夢かうつつか

インド滞在10日目 レーにて

僧院を出た二人は、王宮を目指す。民家の軒先を通るたびに家の中がよく見える。

僧服の子どもは黙々と歩みを進めていく。私は置いておかれまいと必死で着いていく。

息も絶え絶えになり、一休みさせてほしいと声をかけようと思った時、広い空間の建物の中に入り込んだことに気がついた。どうやら王宮に着いたようだ。
彼の表情からそのことが読み取れた。

「案内してくれて、ありがとうな」と彼に礼を言うと、子どもはさらに私に来いという仕草をして、歩き出す。私はまたもや彼に着いていく。彼は王宮の 階段を上っていく。王宮は9階建て。彼はどうやら最上階まで上るつもりのようだ。ぜいぜいと息があがり、もう限界、休もうと思った時、子どもは歩みを止め た。最上階だ。

息を弾ませながら、窓際に寄ってみた。

眼下にレーの町並みが広がり、ヒマラヤの尾根が遥かかなたに続いていく。素晴らしい光景だった。この王宮から、この地を支配していた王は何を思いながらこの壮大な風景を見つめていたのだろう。

そんなことに思いを馳せていた私は、視線を感じた。私をここまで案内してくれた僧服の子どもだった。

そういえば、彼に私はお礼を何もしていなかったことに気づいた。

そして同時に、彼は私に会ってから、たった一度も笑っていないことに気がついた。

笑わない彼の顔をじっと見つめていると、無性に彼の写真を撮りたくなった。私はカメラに85ミリレンズを装着し、無心の表情を無心に撮り続けた。

もちろん、彼は私が写真を撮っていることに気づいていた。しかし、それを気負うそぶりは微塵も感じられない。私は時間を忘れて撮り続けていた。

しばらく私のファインダーの前でじっとしていた彼もいい加減、飽きてしまったのか、外に出てみようと外を指差した。

私と彼は外に出てみた。ややスロープになっていて、下手をすると下に転げ落ちてしまいそうだ。

子どもはそこに寝転んだ。私もならって寝転んでみた。いつもの深く青い空が広がっていた。吹き抜ける風が心地よい。ここまで上ってきた疲れがどっと遅い、眠くなってしまった。

目が覚めた時、どれくらいの時間が経っていたのだろう。スロープから落ちなかったことにほっとしながら、周りを見回すと、彼がいなくなっていた。

「どうしたんだろう、中に入ったんだろうか」

王宮の中に入ると、建物の中は真っ暗だった。何も見えない。しばらく経って、ようやく目が慣れてきたが、そこに僧服の姿はどこにも見当たらなかった。

果たして、夢だったのか。あの僧服の子どもは。

私の頭はいつまでもぼんやりとして焦点を結ぶことがなく、王宮の階段をとぼとぼと下りていった。

インド紀行(45)新調の民族服で街歩き

インド滞在11日目 レーにて

レーの滞在も4日目となる。私は朝食を済ますと、おととい注文した服を受け取りに市場へ向かった。
試着こそしなかったが、見た限りにおいては、上出来と感じた。代金を払い、店主に礼を言って、すぐさまホテルに戻った。

部屋に入ると、出かける準備をしていたSさんから、「服ができたんですね。着て見せてくださいよ」と声がかかる。

私はむろん、そのつもりだったので、さっそく新調の服に袖を通してみた。少々のだぼだぼ感はあるが、それはこの服の特徴。

部屋には鏡がないので、私はSさんに「どうです? 似合いますか?」と聞いてみた。

Sさん、「なかなかいいんじゃないですか。見ようによっては現地人だな、これは」と言って笑う。

私は日本を離れて以来、髭を伸ばしていた。比較的髭の濃い私は、2週間近く剃らずにおくと、ほぼ頬、顎、鼻の下をおおい尽くしてしまう。確かにこの民族服と髭はフィットするかもしれない。

やや気をよくした私は、隆介さんや女性たちがくつろいでいるロビーへ、その格好で現れてみた。

一同、「おー」という感嘆に続いて、慶子さんが「とてもよくお似合いですよ。一瞬、だれだか分かりませんでした」とおほめの言葉を。いつものように心優しき人である。
「うん、いいよ、それで街歩いたら、現地の人に絶対間違われるよ」とOLの晴香さん。
智美さんは、相変わらずの無表情で、終始無言だった。

「では、さっそく、行ってきます」と私は手ぶらで街に向かった。

ここレーでは、ややこの衣装では涼しい。インドの中央ではしのぎやすい生地、作りになっているのだろう。かといって、せっかくの民族衣装の上にスポーツジャケットでは台無しだ。私は寒さを我慢して歩いた。

繁華街に入り、少し体を温めたくなった私は、お茶屋でチャイを注文。店先のテーブルで道行く人を眺めながら、熱いチャイを冷ましながらすすった。

こうしていると、自分は現地の人に溶け込んで見えるんだろうか――そんなことを考えていると、目の前に突然、大柄なバックパッカーが現れ、私の横の席を指差し、「ここ、空いてます?」と日本語で話し掛けた。

「ええ、どうぞ」と私。

私が日本人であることは、自明の理だったようだ。

バックパッカーの彼は、いかにも旅慣れた空気を漂わせていた。旅が鍛えたたくましさとでもいうのか、そうした自信のようなものでみなぎっていた。

「どのくらい、インドを旅されているんですか?」と私。

リュックから何かを探しながら、彼は「そうですね、もう数え切れないくらい来てますね。今回は3か月の予定なんですが。おたくは?」と聞き返す。

「私は1か月程度です。学生なんで、授業が始まるまでには戻らないといけないんですよ」

そう私が答えると、バックパッカーの彼は突然、私の方を振り向き、不敵な笑いを浮かべた。

インド紀行(46)日本人バックパッカーとの対話

インド滞在11日目 レーにて

バックパッカーの男は、風貌が原田芳雄に似ていた。名前を聞かなかったので、ここでは原田さんと呼ぶことにしておく。

原田さんは、リュックからタバコを取り出すと、椅子にどさっと身をゆだねるように座った。

「授業に間に合うように……? たった1か月じゃ、もったいないなぁ……」とつぶやくと、顔をしかめ、タバコに火を付けた。

大きく煙を吐き出すと、原田さん、「インドの魅力に取り付かれたらね、最後ですよ。離れられなくなる」。

その話は私のアルバイト先の先輩からよく聞かされていた。でも、実際にそういう人物にお目にかかるのは、初めてだった。

私は原田さんの考えは否定できなかった。インドに来てまだ10日あまりだが、インドという国の素晴らしさは十分感じていた。あと3週間ほどで日本に 帰らなければならないが、できるだけ長くここにいたいと思っていた。原田さんの話を聞き、授業など吹っ飛ばしてしまおうかと思い始めていた。

インドを放浪する原田さんの姿は、民族服を着た私より、数段、インドという国に溶け込んでいることは誰の目にも明らかだった。

原田さんは、時折、日本に帰り、仕事をし、旅行費を稼いでは、インド放浪を繰り返していることを語った。そして続いて、これまで旅した都市名を次々と挙げては、それぞれの特徴などについて話し続けた。

私はよく動く原田さんの口元を眺めながら、今回のインド旅で、私はその麻薬的魅力から離れられなくなり、この原田さんのような典型的なバックパッカーに果たしてなっていくのだろうか……、ぼんやりとそんなことを考えていた。

私がインドに来た目的は何か、について考えてみた。さまざまな問題を抱え、行き詰った状況を打開することが直接の理由ではあるが、さらに大きな目的は、日本における自己の存在の意味、使命を見出すこと。これを見つけられないうちには帰るわけにはいかない。確かにそうだ。

話し続ける原田さんをさえぎるように、私は聞いてみた。

「原田さんのインドを旅する目的は何ですか?」

「目的? それはインドを放浪すること自体が目的かな。それが今の僕の人生そのものになってるよ」

放浪が人生。私は原田さんのその言葉を聞き、即座に同意するわけにはいかなかった。むしろ違和感を覚えた。それは一つの生き方かもしれない。でも、それは私が目指すものとは、違う。

私はインドが好きだ。でも私の重心、軸足は日本にある。その思いは日本を発つ前も後も変わらない。

原田さん、「日本にはもはや生きがいはないんです。稼がせてもらえれば、それでいいんですよ」。

私はその言葉で、バックパッカーへの憧れが吹き飛んだ気がした。もちろんインドを旅するバックパッカーの人たちすべてが原田さんと同様の考えを持っ ているとは思わない。しかし、このような考えの原田さんに私が出会ったことは、何か運命のような気がした。原田さんの出現によって、私は私のこの旅の目的 を改めて明確にすることができたのだ。

私は原田さんに深々と頭を下げ、「ありがとうございました」とお礼を言い、お互いの旅の無事を願いながら、原田さんのもとを離れ歩き出した。

インド紀行(47)王宮の塔、空、そして月

インド滞在11日目 レーにて

私はホテルに戻る道すがら、考えた。

「自分が日本で成すべきことは何かを考えるために、ここインドへ来た。しかし、その成すべきこととは何か」

私はまだその答えを出しあぐねていた。そして、そんなに簡単に見つかるものでもないことはわかっていた。

私は歩きながら、もう一度、レー王宮に行ってみたくなった。

そうだ、もうあのレー王宮の高みが私に何かをもたらしてくれるかもしれない、と考えた。王宮の方向へきびすを返し、坂を登る。すると、昨日は視界に入ることのなかった、斜面にそびえたつ塔の存在に気が付いた。

白壁に青い瓦のコントラストが美しい3層からなる塔に私はしばし見入った。

この塔の写真を撮ろうと思った。しかし、カメラは手元にない。ホテルまで取りに戻らなければならない。私はもう一度きびすを返し、ホテルに向かった。何か、あの塔はどうしても撮らなければならない――そんな気がしてならなかったのだ。

民族衣装を着た私が早足で歩く姿は、傍から見て、さぞかし滑稽であったに違いない。インドでこんなに自ら早足で歩くのは、初めてのことだったかもしれない。

ホテルに着き、部屋に入るとSさんが昼寝をしていた。私はカメラバッグの中身を確認し、出ていこうとすると、Sさん、「どうです、衣装の効果はありました?」と私の背中に呼びかけた。

「いや、それが……日本人旅行者に、あっさり見破られましたよ。それでその帰り、いい被写体を見つけましてね。これから行って撮ってきます」

「あれ、また美人さんを見つけたんですか。衣装の効果あったじゃないですか」

「いえ、建物ですよ、建物」と私は言い残し、部屋を出た。

ホテルの玄関で、アポロンが私に、戻ってきたと思ったら、また出て行くのか、といった言葉かけをしてきたが、彼と話し出すと長くなるのが常であったので、簡単に返事をし、ホテルを出た。

王宮までの道のりは短くはない。しかも、なだらかな坂道が続く。初めからカメラをもって出ておくべきだったと後悔した。

ようやく塔の下に戻ってきた私はさっそくカメラをセッティングした。偏光フィルターを装着し、感度を落として撮影。これで雰囲気がぐっと増すはずだ。

私は30分おきに数枚ずつシャッターを押していった。塔と背景の空の色の変化を収めたかった。既に夕刻近くに差し掛かっていた空は次第に表情を変え始めていた。これまで撮り続けてきたインドでの写真の中で、ベストショットになりそうな予感があった。

それから数時間、私はカメラの前に座り込み、ひたすら空に浮かぶ塔を眺め続けていた。そして、昼間に出会った日本人バックパッカーとの話を反すうしていた。

自分が日本でしなければならないこととは何だろう。帰らなければならない理由は何だろう。

太陽が沈み出すと空気は急に冷えだした。長くなるかもしれないとスポーツジャケットをもってきてよかったと安堵する。

ジャケットを着込み、塔を眺めると、いい形をした月が塔に接近しつつあることに気が付いた。

インド紀行(48)復路はデラックスバスに決定

インド滞在11日目 レーにて

月が塔に最も接近したころは、すっかり日も落ちていた。月の光に照らされた塔が幻想的にぼうっとそこに立っている。月と塔とのツーショット。美しい 光景だった。私の写真技術の未熟さゆえ、これが思い通りの写真となっていなかったとしても、この光景は目に焼き付いて離れることはないだろうと思った。

3本のフィルムを費やしたところで、私はようやく立ち上がった。既に夕食の時間だ。Sさんには声かけして出てきたので大丈夫だろうが、あまり遅くなるとオーナのおばちゃんやみんなも心配するだろう。

三脚をたたみ、機材をバッグに詰め込み、お尻の埃を払った。そして最後にいい写真を撮らせてもらった、塔と月に合掌し、別れを告げた。

私は何か予感していた。このインドの旅で、もう写真を撮る機会はそう多くはないだろうことを。理由は分からない。少なくとも私がインドに来た目的は写真撮影ではなかった。
事実、この後、私が持参した2台のカメラは、旅の途上、とんでもない災禍に見舞われることになる。予感が的中するのだ。インドに来ると何か勘のようなものがやはり冴えるのだろうか。

ホテルに戻ると、皆は既に食事を終えていた。おばちゃんは私の帰りが遅いことを心配してくれていたようで、私の顔を見るなり、ほっとした表情を浮かべていた。Sさんから私の行動は聞いていたとは思うが、申し訳ないことをしたと反省。

おばちゃんは私の分の食事を用意してくれた。そして私は、王宮の近くでとてもいい写真が撮れたことを報告させてもらった。
お腹が空いていたこともあり、おばちゃん手作りのカレーはとてもおいしく感じた。

おばちゃんの話によると、夕食時、Sさんを除く5人は、帰りの手段について相談していて、あさっての朝、飛行機でレーを発つことで意見が一致したのだという。5人のチケットが確保できるのだろうかと疑問に思ったが、何らかの手立てを見出せたのかもしれない。

その話を聞き、私はどうすべきかを考えなければならないと思った。このままではレーでインド滞在のほとんどを過ごすようなことになってしまう。ここはとても居心地のいい場所だが、インドらしさに欠けるし、第一狭すぎる。

私は食事を終え、おばちゃんにお礼を言い、部屋へ戻った。

Sさんは、「隆さんたち、あさって帰るそうですよ、飛行機で」と私の姿を見るなりに切り出し、私も「今、おばちゃんから聞いたところです」と答えた。

私はSさんと帰りの算段についてしばらく話し合った。飛行機は楽だが、高く付く。まだ旅の序盤にある私とSさんはなるべく節約したいとの考えで一致 した。ということは、往きで使ったおんぼろバスかということになったが、さすがに2人のとも、それは避けましょうとまたもや意見が一致し、結局、デラック スバスを使うことにした。

レーを出てから、私が考えていた行程は、バスでスリナガルに戻り、列車に乗り換え、アグラへ。タージ・ハマルとのご対面を果たす。インドが世界に誇る建築物。ここはさすがに押さえておきたいと思っていた。

私は当面の計画が決まった安堵感と、今日一日、歩き回った疲れがどっと出たせいか、眠ろうと横になった途端に眠りに落ちてしまった。

インド紀行(49)マトンご飯で最後の晩餐

インド滞在12日目 レーにて

レー滞在、最後の一日。一同が朝食をとっていると、おばちゃんがみなの話を制し、突然こう切り出した。

「きょうの夕食は、最後の晩餐になるから、パーティーにしたいと思っているの。ちょっと手の込んだもの作るから、もしよかったら、女性でどなたか手伝ってくれるかしら?」

口々に「いいねぇ」「楽しみ」との声が挙がり、女性は3人ともおばちゃんの手伝いを喜んでしたいと申し出ていた。

私もいい加減、レーの街歩きは飽きていたし、一日ゆっくり家でくつろいでいようと思っていたので、できることがあればと、私も手伝いに名乗りを挙げた。

お昼過ぎからパーティーの準備は始まった。私が任されたのは、グリーンピースの皮むきだった。私の前に置かれたかごには山盛りのえんどう。こんなに大量のグリーンピースを使う料理は何だろうと不思議に思ったので、違う作業をしていたアポロンに聞いてみた。

「マトンの炊き込みご飯に使うんです。マトンご飯は私たちもめったに食べることがなくて、おもてなしの時くらいですね」

マトン……まだ若かった私は羊肉を食べた経験がなかった。どんな味がするんだろう。

やはり作業をしていた女性の間から、小声で「え~、マトン~? 匂いがきついのよね、マトンの肉は」など、ささやきあっていた。

材料の準備が済むとおばちゃんと女性グループはキッチンに消えた。私の役目は終わった。

部屋に戻り、明日の出発に備えての荷造りをしていると、おばちゃんが私を呼びに来た。

「準備が出来たわよ、いらっしゃい」

これまで1週間、お目にかかったことのない料理の数々が所狭しと並べれていた。

全員が着席すると、メインディッシュとなる、マトンの炊き込みご飯がそれぞれのお皿に盛られた。

おばちゃん、アポロンも席に着き、彼が「これからの旅の無事を祈って」とお茶で乾杯。

たくさんの料理に目移りしたが、やはり気になって仕方がなかったのは、マトンご飯だった。しっとりと炊けていて、見ため的にもおいしそうだった。

私はマトンご飯を一口、食べてみた。

「おいしい!」

思わず、口をついて出た。軟らかく炊き込まれたご飯は粘り気があり、マトンの味がよく染み込んでいる。マトンの肉自体も軟らかく、臭みはほとんど感じなかった。私がえんどう豆の皮をむいたグリーンピースもいい脇役を演じていた。

皆の評判も上々だった。

おばちゃんも満面の笑顔だった。

1週間のそれぞれの思い出とこれからの旅の予定などを話しながら、レー最後の夜はゆっくりと更けていった。

インド紀行(50)初めての列車でアグラへ

インド滞在14日目 レー→スリナガル

前日のパーティーで7人は遅くまで語り合った。ばらばらの7人がインドのヒマラヤの奥地で出会い、同じ時を過ごした偶然という奇跡の余韻に皆が浸っているようだった。

早朝、隆さんら5人が飛行場へ出発。私とSさんも起きて5人を見送った。

「日本でまた会いましょう」「お互いに気をつけて」と声を掛け合い、一行は朝もやの中に消えていった。

私とSさんのバスの出発時刻はお昼過ぎなので、もう一眠りすることにした。

私はぐっすりと寝込んでしまっていたようだ。Sさんに起こされた時は、昼近くになっていた。

遅い朝食をとって、身支度を整える。

オーナー母子が私たちを見送ってくれた。再会を約して、出発。

バスターミナルには既にスリナガル行きのリムジンバスが停車していた。

チケットを購入してバスに乗り込むが、がらがらである。運転手に聞いてみると、「乗客は5人だけ、きょうは少ないよ」という。

私は隆さんたちが飛行機で帰れると確信したわけをようやく理解した。きょうはレーを出る旅行者が少ないという情報を得ていたのだ。

ほとんど貸切の状態ということもあり、私とSさんは離れた席を確保した。リクライニングも利く、なかなかデラックスなバスである。

往きとは比べ物にならない快適な旅路になりそうだ。私はほっとし、荷物を隣の席に置き、さっそくシートをいっぱいに後ろに倒してみた。

何のアナウンスもないままに、バスは出発した。私はリクライニングを起こし、1週間と長い間、滞在し、たくさんの思い出を刻んでくれたレーの町に感謝し、別れを告げた。

見覚えのあるスリナガルの町に到着したのは翌日の夕方だった。

バスを降りた私とSさんは、「それではここで」とお互いの旅の無事を祈りつつ別れた。

さて、再び一人となった。一人旅再開である。

予定通り、私はタージマハルのアグラを目指す。

アグラへは汽車で行くつもりだった。旅も中盤だが、初めての汽車の旅。楽しみであり、若干の不安もあり。

駅でチケットを購入しようとするが、たくさんの人の列があり、どこに並べばいいのかわからない。並んでいる人に尋ねてみたが、要領を得ないので、と りあえず適当に並んでみた。鉄道はバスに比べて難しいとは、デリーでマイルスから聞かされていたが、実際、一筋縄ではいかないことを実感する。

30分ほど並んで私の順番がきて、アグラ行きのチケットを注文。安い3段寝台席を確保した。

初めての汽車体験。期待を膨らませ、列車に乗り込んだ。そして、この時、旅の途上における初めての災難に見舞われることになるとは知る由もなかった。

インド紀行(51)3段寝台でカメラ水没の危機!?

インド滞在14日目 スリナガル→アグラ

私の席は最上段だった。はしごで登る。3段の寝台はさすがに狭かった。起き上がった姿勢では頭がつかえてしまう。安いのだから仕方がないが、眠って時間を過ごす以外にないと早々に観念した。

さて、どのように眠るかが問題だった。荷物を置く場所がない。大きなリュックにカメラバッグ。これらを寝台の狭い空間でいかに処理し、一緒に眠ってあげることができるか。不可能な課題に見えた。

とりあえず、リュックと添い寝する形をとってみる。外側は当然、私の生身とならざるをえない。リュックを外側にしたら、眠っている間にいつ落下するとも限らない。いや、間違いなく落下してしまうだろう。となると、大ごとになる恐れがある。

問題はカメラバッグである。もう残されたスペースは全くなかった。考えた挙句、バッグを枕がわりにするしかないという結論となった。カメラバッグの枕は大きすぎて、眠るにはあまりにも首が急角度になりすぎ、寝心地は最悪であった。しかも機材を傷めないかという懸念もあり。
バッグの中身を移動し、もっとも頭にフィットする形を整えてみると、ようやく何とか枕らしき感じが出てきた。

少し横になって眠ろうとすると、あまりに暑いことに気が付いた。さきほどの眠り体制を作ろうとあくせくしたことも原因だろう。汗まみれとなっていた。

タオルで汗を拭いていると、列車は突然、ガクンと振動した。どうやら出発したらしい。

窓を開けてみると涼しい風が吹き込んできた。気持ちがいい。一気に汗がひいていくのを感じた。

外を眺めると、のどかな農村の風景が続く。夕焼けにそまった農村は畑も家畜も人もすべて黄金色に輝いていた。

私はしばらく、車窓の風景にみとれていたが、中途半間な体勢が疲れてきたので、バッグを枕に横になり、目をつむった。

列車の規則的な振動音が心地よく体に響いてくる。やはり列車はいい。郷愁を感じさせてくれるというか。

列車の旅、そして郷愁などと思いを巡らせているうちに、私が小学校5年生の時、列車に乗り、一人で秋田まで行ったことを思い出してしまった。

快適な移動になりそうだ、私はそう感じながら、眠りに着いた。

寒気が走り、目が覚めると、顔が濡れていることに気がついた。車内の灯りは落ちているので、私はなかなか状況を理解できなかった。窓から水滴が吹き込んできている。雨だ。

慌てて窓を閉める。

窓の付近が濡れている。
私は蒼白になった。

「まさかカメラが……」

カメラバッグの側面は既にびしょ濡れになっていた。私のバッグはフタをするタイプで、側面が開いているので、水は浸入しやすい。

暗い中で私はバッグを開け、手でまさぐってカメラの具合を調べてみた。わずかではあるが水が浸入した感がありありと伝わってきた。

もしカメラに浸水してしまっていたら……私はインド旅で始めての絶望的な気分に襲われた。

インド紀行(52)父から借りたペンタックスが水没

インド滞在15日目 スリナガル→アグラ

3段寝台という狭い空間、しかも巨大なリュックと添い寝の状態では、カメラバッグからカメラを取り出し、動作チェックを行うことは無理と判断した私は、バッグやシートに着いた水滴をタオルで拭き取り、もう一度眠りにつく体制を整えた。

カメラのことが気になって眠れないだろうかと思いつつ目をつむったが、疲れていたのか、予想外にぐっすりと寝込むことができたようだ。気が付いた時は終点のデリーに既に近づいていた。

デリーで一度降車し、アグラ行きの列車に乗り換える予定である。デリーが近づくにつれ、通勤客が明らかに多くなってきた。私が寝ている下2段の寝台 は既に形が失われ、シートとなって客が座っていた。3段目の私は影響はないものの、どうしていいかわからず、そのまま寝転んでいた。起きようにも、既に私 が座るスペースはないし、大きなリュックやカメラバッグを持て余すことになるのは必至だからだ。
向かいの3段目のお兄さんも全く気にするそぶりもなく寝転んでいる。私はその姿を真似ていればいいのだろうと解釈した。このままデリーまで行こうと。

街並みが次第に都会化していくのが手にとるようにわかる。グラデーションのように、建物の密集度が濃くなってきた。12日ぶりで戻ってきたデリー。なんだか懐かしささえ覚える。

ニューデリー駅に到着。アグラ行きに乗り換え。駅員に聞くとスムーズに答えが返ってきた。やはり都会は何においても合理的だ。

約2時間でアグラ・カント駅に到着。ガイドブックによると駅からタージ・マハルまでの距離は2キロほど。インド屈指の観光地なので、悪質なリクシャワーラーも多い、との記述があったので、ゆっくりと歩いてタージ・マハルを目指すことにした。

歩き出してすぐに、思い起こした。そういえば、カメラはどうなんだろう、大丈夫なんだろうか。

大事なことを忘れていた。このままタージ・マハルへ行って、いざカメラが使えなかったでは重い荷物をもっていく甲斐もない。

そう思った私は、今晩泊まるホテルを探すことにした。アグラには長居するつもりはなかった。ただタージだけを拝めればそれでよしと決めていた。どんなぼろなホテルでもいい。できれば駅周辺で決めたいと思い、ふと目に付いたホテルに飛び込んだ。

まさに何の変哲もない典型的な安ホテルの趣だった。値段も妥当だし、即決した。

部屋に案内され、さっそく懸案のカメラ機材をベッドの上に広げてみた。カメラは2台。祈るような気持ちでまず、ペンタックスを取り出し、レンズキャップを外してみた。これは父から借りてきたものだ。

レンズには水滴とも蒸気ともつかない模様がしっかりと付着していた。

電気系統はどうか。シャッターを押しても、うんともすんとも云わない。

New F-1もだめか……。思わず泣きそうになった。

F-1を取り出す。レンズキャップを外すが、意外にも水滴は着いていない。シャッターを押してみる。軽快な音を立ててシャッターが下りた。

大丈夫だった。

一台は死んだが、肝心の一台は生き残ってくれていた。

私は安堵のため息を大きくついた。

インド紀行(53)完璧な美のタージ・マハルに息を呑む

インド滞在15日目 アグラにて

メイン(Canon New F-1)のカメラが生き残ってくれていたことは、私にとって僥倖そのものであった。

ただ、水死してしまったペンタックスは、自分の物ではない。父からの借り物であった。帰国してから、平伏してひたすら謝るしかない。旅行から帰った直後では弁償は無理。次のバイトが見つかるまで待ってもらうしかない。

私は生き残ったNew F-1を肩にかけ、タージ・マハルを目指して歩き出した。

自然、私の歩みは速くなっていた。世界で最も美しいといわれるタージ・マハルは私にとって憧れの存在だった。ムガール帝国の王が亡くなった后の墓として建てた装飾品のような墓標。

私の心はときめいていた。最愛の人に会うような。

建物の間から、タージ・マハルが顔をのぞかせた。もうすぐだ。

土産物屋のしつこい声かけを振り切ると、突然、真正面にタージ・マハルが姿を現した。息を呑む美しさに私は打たれ、しばしその場を動くことができなかった。

生き残ってくれたNew-F1で撮影。南門、堂々たる正門とくぐり抜けると、水路に”逆さタージ”が写し出され、上下左右の完璧なシンメトリーを演 出していた。恐ろしいほどに究極の美を計算し尽くされた建造物だと感じた。イスラム教を奉じていた国王が建てた建物だから、モスクの形状になるのは当然な のだが、不思議とタージ・マハルはこの形でなければならない、という気にさせられる。それだけ、国王の、この建物、いや王妃に対する思いが強かったのだろ うと想像した。

近づいてみると、遠くからではわからなかった象嵌細工が見事に施されていた。しかし、400年の歳月は確実に風化をもたらしているようで大理石が劣化しひび割れている個所がいくつか目についた。

中に入れそうなので、入場料を払って建物内へ。中は暗く、ひんやりした空気が心地よい。
地下の王妃の墓が安置されている部屋は驚いたことに異様に暑かった。お墓を守る上では高温多湿は避けなければならないはず。しかし、蒸すような暑さはどうしたことか。
ガイドの男が、この部屋が暑くなるのは、科学では証明できない不思議な現象だと語っていた記憶がある。

私はその暑さにやや気分が悪くなったので、早々に抜け出し、外に出た。
やはりタージ・マハルは外から眺めるに限る。大変な思い入れをもって建てた国王には悪いが、私にとっては装飾品としてのタージ・マハルであってくれればよいと感じた。

私はもう一度、タージから少し離れたところに移動し、腰を下ろして、タージ・マハルを眺めてみた。

しかし、タージ・マハルと向き合っても、特別な感興が湧いてこない。白からくる印象なのかもしれないが、冷え冷えした感が否めない。完璧な美しさを誇るだけに余計そう感じてしまうのか。

私はせっかくだからと近くにあるアグラ城にも行ってみようと腰をあげた。

インド紀行(54)若者とバドミントンに興ずる

インド滞在15日目 アグラにて

アグラ城にはあっという間に着いてしまった。ヤムナ河畔に深紅の宮殿が建ち並ぶ。敷地は広大ではあるが、タージ・マハルとは違い、配置などは自然な まま感がある。私は完全なシンメトリー美より、どちらかというと、こうした雑然とした雰囲気が好きだ。アグラに着いて、やっと落ち着くことができた気がし た。

城壁からはヤムナ河を臨むことができ、ゆったりとした川の流れの向こうにタージ・マハルの姿があった。まさに宝石のような姿は、遠くから眺めて価値のあるものということを実感した。近づきすぎてはいけないのだ。

他の建物も見てみようと庭園の方に降りると、若者たちがバドミントンに興じている。私はしばらく楽しそうな彼らを見つめていたが、ついに私も参加したくなってしまった。
私は本格的なバドミントンの経験はないが、高校までテニスをしていたので、ラケットのさばきには多少なりの自信があった。

彼らに近づき、一緒にいいかとラケットを振るポーズをとると、すぐにラケットを私に手渡してくれた。
試合ではないので、ラリーを続けることが目的。私は相手が打ちやすいよう、なるべく正面に山なりの飛球(羽?)を返した。
ラリーは長く続いた。ギャラリーはいつの間にか増え、子どもたちが私たちの周りを取り囲んでいた。
ラリーがいつまでも続きそうだったので、多少の演出は必要かと私は弱めのスマッシュを相方に打ち込んだ。突然の飛球の変化についていけず相方はミスをした。
取り囲んでいたギャラリーが沸いた。
どうやら私は相当の腕の持ち主と思われてしまったようだ。

あまり長居し、彼らの邪魔をしては悪いと、ラケットを返し、集まっていた子どもたちの頭をなでなでしながら、アグラ城を出ることにした。

ホテルに戻り、シャワーを浴びようと蛇口をひねってしばらく待ってもお湯が出ない。故障かと思ったが、このホテルは水しか出ないのだろうとすぐにあきらめた。
これまでインドで泊まったホテルで、水シャワーだったのはスリナガルのボートハウスのみ。山奥のレーでもしっかりとお湯が出ていた。
真夏なので、寒さはそう感じない。しかし、冬はさすがにきつそうだ。

出掛けにベッドの上に広げておいた水没カメラがそのままになっている。レンズの中は相変わらず水滴で曇っている。だめもととはわかっていたが、シャッターを押すがやはり無反応。あきらめてバッグにしまい込んだ。

ベッドに横たわり、あと半分となったインド滞在をどう過ごすかについて考えてみた。

旅の前半はインドという土地に慣れるのが精一杯で、本来の目的であった、「自己と向き合う旅」「信仰について考える旅」については全くといって果たせずにいた。

しかしようやくインドにも慣れ、一人となった今、そのチャンスが訪れたのだろうと思った。そのことを考えるのはどこが最適の地なのか。
私はベナレスしかないと思った。
私はヒンズー教徒ではないが、インドの象徴的信仰であるヒンズーが息づく街であり、信仰者が死に場所とする街。

ベナレスへ行こう。ここが私のインド旅の核心となることは十分予想ができた。そして私にとっての旅のクライマックスは事実近づいていた。

インド紀行(55)好物のマンゴーを一気食い

インド滞在16日目 アグラ→ベナレス

ベナレスへ移動するために翌日、私は駅で列車のチケットを購入した。前回の失敗を反省し、今回は2段寝台とグレードアップさせてみる。しかもエアコン付き。何事も経験である。

3段寝台でカメラを水没させてしまったこともまだ尾を引いていたので、今回はそのジンクスから脱したいという思いもあった。

列車の出発時刻は夕方なので、それまでの間、街を散策して時間をつぶした。
初めてコカ・コーラを飲んでみた。日本のそれとは微妙に味が違っていた。やはりお国柄によって味の好みも違ってくるのだろう。

市場ではさまざまなフルーツがあったので、一つずつ買って味を確かめてみる。
そんな中で私の好物のマンゴーを見つけた。1個なんと日本円にして30円。一気に5個を買い込む。

近くの公園のベンチでマンゴーを堪能する。

一気に3個食べたところでさすがにお腹が膨れ、飽きてきた。持っていく間に悪くなってもと、頑張ってあと2つも食べきった。自分のあさましさに少々反省。安いからと飛びつくと碌なことがないのは、万国共通ということを痛感。

そうこうしているうちに列車の発車時刻が近づいたので、アグラ・フォート駅へ。

列車に乗り込み、私のコンパートメントにたどり着くと、前回とはやはり赴きが違い、階級の高そうなインド人の女性が2人、向かいの席に物静かに座っ ていた。一人は年配で年は50前後か。もう一人は20代かと思われた。2人は時折、小声で何かを話すので、知り合いであろうことは間違いなかったが、それ にしてはあまり弾んだ会話にならないのが不思議な感じがした。

列車はいつの間にか動き出したが、向かいの女性は相変わらず無言だった。
私も話し掛けるのがはばかられる雰囲気を感じたので、黙ったまま、外の風景をひたすら眺め続けていた。

インド紀行(56)底まで冷える列車のエアコン

インド滞在16日目 アグラ→ベナレス

今回の列車はAC車。つまりエアコン付きである。だから快適である。前回のように暑いからと窓を開ける必要がない。従って、突然の雨でカメラを水没させる恐れはない。完璧である。

しかし、快適を通り越して寒くなってきた。日本でもよくあることだが、明らかにエアコンの効きすぎである。リュックからジャケットを取り出し、はおってみるが、しんしんというよりぎんぎんと来る冷気はまさに底冷えというにふさわしかった。

夜も更けたところで、突然、向かいの二人の女性が立ち上がり、寝台をつくる準備を始めた。私もそれに倣い、寝台作りにとりかかる。しかし、どうして いいか分からないので、向かいの女性たちを真似ようと作業を見ていると、力が足りないせいか、うまくいかないようで、私は立ち上がり手伝いをした。

うまく寝台がはまらなかった原因はやはり力が足りなかったせいのようで、私が手を貸したことで簡単にそれは寝台の形となった。

私はやり方がわかったので、自分の寝台をこしらえてみたが、すぐにうまくいった。

女性2人は私に初めて笑顔を見せてくれた。そして手を貸してくれたお礼も。よかった。一度でも笑顔を見ることができた。

今回の私は下段である。前回のようにベナレス近くになると、通勤に使う人々が乗り込んできて、席を占められてしまうのだろうか、その時は仕方ない、流れに身を任せようなどと思いながら横になるとすぐに眠ってしまった。

身震いするような寒さで目覚めた。やはりエアコンが効きすぎなのだ。ジャケットのほかに上掛けするようなものは持ち合わせていない。仕方なく、外気を入れ、少しでも温度を上げてみようと窓を開けた。暖かい空気が心地よい。普段なら暑くて仕方ないはずなのだが。

私はもう一度眠りについた。

何時ごろだったのだろう。私は明らかに異常事態を感じさせる何かによって目覚めさせられた。

インド紀行(57)窓から手が…危機一髪の盗難未遂

インド滞在16日目 アグラ→ベナレス

手首の辺りが痛い。なんだろうと寝ぼけ眼を凝らしてみると、窓の外から黒い手が伸び、私の手首をつかんでいたのだ。

「うわぁ!」

さすがにこの時は、驚きのあまり大声が出た。

黒い手は私の時計のベルトをまさぐっているようにも見えた。時計を盗もうとしたに違いない。

その時、列車は停車していた。

窓には鉄格子がはめ込んであるが、その隙間からは十分に手を入れ込むことができる。

当然ながら、私は追いかけることもできない。車掌にこのことを話しても何の結果にも結びつかないだろうことは容易に想像できた。

後で聞いた話だが、悪質な場合は、時計を奪うために腕を切り落としにかかることさえあるという。恐ろしいことだ。腕をつかまれただけで済んだことに私は安堵し、幸運に感謝した。

何が起こるかわらからない――インドの列車の旅を経験し、私はそう思わざるをえなかった。

体が少し震えているのは寒さのためではなかった。怖かったからだった。

私は窓を閉め、もう一度横になった。

ぐっすり眠ってしまっていたようで、私が目覚めた時はすっかり外が明るくなっていた。
そして、私は人に起こされたことに気が付いた。どうやら通勤ゾーンに突入したようだ。

まだ眠かったが、仕方がない。起き上がって席を譲った。寝台は2段なので、上段はそのまま荷物置き場となるので、私はリュックとカメラバッグを上に乗せた。

私は席に座り、すぐに眠った。とにかく眠かった。これだけの人がいれば、昨夜のような災難も起こるまいと安心して眠りに着いた。

インド紀行(58)「写真はもうよい」と天の声

インド滞在17日目 ベナレス

ベナレスへ行くために乗り換えが必要なムガル・サラーイ駅に到着した時、私はまだ眠りこけていた。周囲がざわざわと降り始めたことでようやく目が覚めた。乗り換え駅であることに気がつくまで多少の時間がかかってしまった。

乗り過ごしてはいけないと、慌てて荷物を降ろし、列車の外に出る。ローカル線を見つけ出し、ベナレスへ。

いよいよベナレスに足を踏み入れることができた。

私にとって、このベナレスは大きな期待が膨らんでいた。なぜ、という理由は自分でもよくわからない。しかし、インドへ来た目的はここにあるとの予感は前も今も変わらなかった。

私はこのベナレスにできるだけ長く滞在することを決意していた。気が済むまでいるのだと。
数泊では足りない。1週間、いや2週間でもいい。たとえ学校の授業に間に合わなかったとしても、自分はここで得るべきものを必ず得て帰るのだ、と深く胸に期していた。

まずは長期滞在を可能とするホテルをどこにするかである。できればガンガーからそう遠くないホテルにしたい。ガンガーに至る道を歩いていると、作り こそ古いが、英国風の洒落た雰囲気が伝わってくるホテルが目についた。料金を聞くと適当な価格であったので、ここに決めることにした。「ホテルは迷わない」 が、私の鉄則である。ホテル探しに費やす時間と体力がもったいないからである。動いたからとて、必ずいいホテルに行き当たるとは限らない。

部屋に通され、一息つく。いつものようにベッド上に荷物を広げてみる。カメラバッグからもカメラを……とバッグのフタを開けると、カメラが見当たらない。つまりない。

私は氷ついた。

まさか、盗まれた?

どこで……列車以外考えられない。

またもやカメラに災難が……私はつくづく写真との相性の悪さを痛感せざるをえなかった。

「写真はもうよい」

天からそんな声さえ聞こえた気がした。

インド紀行(59=編集中記)貴重なフィルムまで紛失か!?

カメラ、写真についての後日談

私は愚かにも旅の途中で2台のカメラを水没、もしくは盗難されてしまった。写真に関しては全く情けない結果の旅となった。

さて、盗まれたカメラについては、もう少し続きがあり、エピソードを本編でつづるつもりなのだが、問題はフィルムはどうなったのか?である。

私の記憶では20本程度のフィルムが撮影され、日本に持ち帰ったはずである。そしてその中から、3点を秋の大学祭での写真展に出品したことは間違いない。
たいした写真ではなかったが、私にとっては大きな代償を払った貴重な作品だった。

そして、その貴重なフィルムはどこにあるのかというと、不明なのである。転勤や結婚による複数回の引越しで、フィルムケースがとうとうどこにいったか分からなくなってしまった。

これまでの私は、持ち歩きが不可能と判断したものについては、実家に退避させてもらうことを常としてきた。その例に倣えば、フィルムも実家にあるはず、である。

私は実家の父に電話をし、捜索をお願いしてみた。しかし、今のところまだ見つかっていない。もう少し探してくれるとのことだが、申し訳ない限りだ。

もし見つかれば、ブログにて、その写真を公開していきたい。

どうか、見つかってくれることを祈る。

私が元気なら、自分で探しにいくところなのだが。

それから積み残された父への返済は結局、踏み倒すことになってしまった。本当にごめんなさい。ここに深くお詫びいたします。

インド紀行(60)盗難証明をもらいに警察へ

インド滞在17日目 ベナレス

しばらく呆然としていたが、はっとあることに気が付いた。

「そうだ、そういえば保険に入っていたんだ」

高価なCanon New-F1には出発前、AIUで保険をかけていた。そのことを思い出したのだ。

契約書を探し出し、細かい契約内容を懸命に読んだ。こんな小さい字を読むのは生まれて初めてだった。

盗難については、盗難があった事実を証明できる書類が必要であるとの記述があった。

警察と掛け合わなければならないが、果たしてこちらの意図がうまく伝わるだろうか。正直不安だった。

不安がってばかりでは事態は進展しないので、とにかくやってみようとカメラバッグをもって駅へ向かった。

駅には鉄道公安の警察がいるはずだ。しかし、どこがその場所なのかが分からない。

駅員に尋ねて、ようやく警官の居場所が分かった。

一人の警官にカメラが盗まれたこと、盗難証明を書いてほしくてここに来たということを必死に話すが、どうも通じていないらしい。どうやら警官も英語があまり得意でないらしい。ブロークンイングリッシュ同士では、込み入った話が通じるわけもない。

困った顔をして周囲を見回すと別の警官と目が合い、私は「お願いします」と必死に訴えた。大男でインド系というよりアフリカ系と思われるその警官は、さも面倒といった表情で立ち上がり、こちらに近づいてきた。

2人の警官は二言三言を交わし、大男が私にいくつかの質問をしてきた。それでやっと私の意図が伝わってくれた。助かった。

しかし、本当に大変だったのはそれからだった。大男は調書のような書類を取り出し、私に項目一つ一つについて質問を始めた。

……わからない。完全に私の理解を超えた用語で占められた調書に私はたじろいた。

インド紀行(61)子どもたちに導かれたガンガー

インド滞在17日目 ベナレス

盗難証明が私の手に乗ったのは、それから約2時間後。慣れないコミュニケーションによって、私の精神状態は伸びきったゴムのようになっていた。
ホテルに戻った私はベッドに倒れ込み、天井を仰いだ。

保険によってどれだけの補償となって戻ってくるかは保険会社次第だが、最悪のケースだけは免れたことには、ひとまず安堵していいだろう

「ガンガー、一枚でも写真に収めておきたかったな……」

そう思いながら目をつぶると、きのうからの気づかれのせいで、そのまま眠り込んでしまった。

目が覚めた時にはもう夜中になっていたので、ベナレスでの活動は明日からにしようと、着替えをして、眠りについた。

翌朝の目覚めは意外にもすっきりしたものだった。ゆっくり休めたこともあるし、写真をもう撮らなくてもいいという、ある種のプレッシャーからの解放感もあったかもしれない。
自分自身、写真の才能、愛着ともに極めて低レベルにあることを思い知らされる。

「仕方がない、もって生まれたものだ」と自らに言い聞かせ、身一つでの街巡りへ出発することにした。

街巡りといっても、目的は一つ。

ガンガーをこの目で早く見てみたい、それだけだった。

私はレーで購入した民族服のクルターとパージャマーを着込んで、手ぶらの状態でホテルを出た。

ガンガーの方向を目指し、勘を頼りに歩くが、細い路地が迷路のようになっていて、なかなかガンガーにたどりつくことができない。

すると、いつの間にか私はたくさんの子どもに囲まれ、「バクシーシ、バクシーシ」と小さい無数の手を向けられていた。

この子どもたちに恵んであげるかどうか、まだ考えるゆとりがなかった私は、「ガンガーはどこ?」と子どもたちに尋ねた。

すると子どもたちは、そんなつまらないことを聞くのかと言わんばかりの表情をし、私の手を取り、突然走り出した。

インド紀行(62)ガンガーとの”対話”始まる

インド滞在18日目 ベナレスにて

子どもたちはすごいスピードで私の前を走っていく。地面は凹凸の激しい石畳。下手をすると転びそうになる。
そんな私にお構いなしに走り続ける子どもたちは、突然、立ち止まり、私に「来い」と呼ぶような仕草をする。

着いたんだな、ガンガーに。

私の胸は高鳴った。

建物の間をすり抜け、子どもたちがいる地点にたどりつくと、そこには壮大な光景が広がっていた。

遥か見渡す限り、満々と水をたたえた広大な河の威容に、私は圧倒され、声が出なかった。

ガンガーに向かって放心状態の私を子どもの一人は、私の服をつまみ、「バクシーシ」と腰をひねって私にねだった。

私はここまで連れてきてくれたお礼に、子どもたちに硬貨を1枚ずつ渡した。そして子どもたちは、硬貨を手にし、満面の笑みを浮かべ、私から順々に離れていった。やがて子どもたちは私の前からいなくなり、私が相対するものは、ガンガーのみとなった。

私はしばし、ガンガーを見つめ、立ち尽くしていた。

私はこの大河と会うために来たのだ。私はこの大河と対話をするために来たのだ。

そう思うと、深い感慨が押し寄せてきた。これまでのさまざまな旅のエピソードのすべては、ガンガーの前に吹き飛んでしまった。

さあ、ゆっくりと、じっくりと対話をさせてもらうぞ。

私はガンガーに声をあげて呼びかけた。

インド紀行(63)沐浴の決意、急速に萎える

インド滞在18日目 ベナレスにて

雨季のガンガーの川幅は広い。最高で2キロに達するのだそうだ。

岸辺のガートには、無数の人、人、人。水位が高く、ガートが狭くなっているので、密集度は尋常ではない。

老若男女が、それぞれ思い思いにガンガーに抱かれている。その恍惚の表情が皆、一様に美しい。

沐浴は、ガンガーでは必ずしてみたいことの一つだった。私の持てる信仰はヒンドゥーではないが、聖なる河とあがめられ、事実、目の前にしたガンガーには、何か底知れない力強さとやさしさを感じる。
真似事でもいい、とにかく私は、彼らの信仰の源泉となっているガンガーに一度でいいから体を沈めてみたかった。

ガートを降り、川の水が手に触れるほどのところまで来ると、私の”決意”は急速に萎えていった。
聖なる河には大変失礼だが、とにかく川の水が汚い。茶色く濁り、黒い燃えかすのようなものがたくさん漂っている。
まるで泥の川だった。

熱心に沐浴をしている人々を見回すと、当然ながら水の濁り等には一切、気を止めていないようであった。中には祈りを捧げるばかりでなく、川の水で歯を磨く輩もいた。信仰上、いいのだろうかと疑問符。

他人の信仰をとやかく言う前に、お前はどうしたいのか、と最初の問いがやってきた。

答えは、ぼんやりとしたものだった。私の目的は不明確だった。ただ、自分と向き合うために、自分の信仰について再考するために、ここガンガーの地が必要とやってきたのだが、私は軽い気持ちで考えていた。まずはガンガーに浸ることで何かが得られるのではないかと。

ガンガーは、私のそんな甘い考えを拒絶するかのようだった。確かに河の水の汚さにたじろぐようでは、ヒンドゥー教徒の皆さんに失礼だし、信仰に対する冒涜となってしまう。

私は沐浴をあきらめ、ただ何を考えるでもなく、ひたすらガンガーを見つめ続けていた。

インド紀行(64)葬列を追って火葬場へ

インド滞在18日目 ベナレスにて

2時間ほど、ガートに腰を下ろし、考え事をしていた私は、気分転換をしたくなった。ガートに沿って歩いてみようかと。

ガイドブックによると、ガートにはいろいろな名前が付いており、それぞれは独立している。ところどころ建物がせり出すような形で分断されているので、一度、建物の裏手を回ってからガートへの出口を見つけなければならない。

いくつかのガートを回った後、私はマニカルニカー・ガートを目指すことにした。
マニカルニカー・ガートは火葬場があるガートで、24時間、休むことなく死者の火葬が続けられているという。
狭い路地を歩いていると、背後からざわめきが近づいてきた。何だろうと振り向くと、男たちがオレンジ色の布にくるまれた何かを高々と掲げ、小走りに近づいてくる。
葬列だ、とすぐピンときた。
私は道の端に身を寄せ、葬列を見送った。そして、この葬列についていけば、火葬場に連れていってくれるに違いないと思い、彼らの後を追うことにした。

予想は的中し、葬列が行き着いた先は、通常のガートよりは高く平らに作られた火葬場だった。

ここがマニカルニカー・ガートなのか。

手前には布にくるまれた多数の遺体が横たわり、川岸に近いところでは、数体の遺体が焼かれ、勢いよく煙を立ち上らせていた。

私はあまりに厳粛な光景に息を呑んだ。ヒンドゥー教徒数億人のだれもが、ここで死に、ここで焼かれ、ガンガーに灰をまかれることを願う。その究極の地、至高の場所。

遺体からゆらゆらと立ち上る陽炎を見つめながら、生と死の意味について、必死に考えようとした。しかし、なぜか全くといっていいほどに深い考えには到達することはできなかった。

インド紀行(65)なぜ火葬せず遺体を河へ

インド滞在18日目 ベナレスにて

まだ20歳そこそこの私にとって、死は身近な事柄とは考えられなかった。
目の前に並ぶ遺体を見ても、自分とは切り離された存在としか映らなかった。無理もないだろう。
それから20数年後、私は死に直面することとなり、初めて切実にとらえられるようになるのだが、そのことを当時の私は知る由もない。当然だ。

ただ、私はたかだか20年ほどの人生経験ながら、生きることの難しさを感じているつもりだった。若さゆえに生じる悩みは、人並みに抱えていた。

人生の半ばを過ぎた今から思えば、つまらないことで悩んでいたものだ、という言い方もできる。確かにそうした側面はあるが、そうとも簡単に割り切れないこともある。
大人になっていくに従って、尖った若い悩みは次第に丸くなり、落ち着いていくのだろうが、そうなってはならない、という気持ちがむしろ強かった。そのエネルギーがインドに私を向かわしめた。

当時の個人的な悩み、葛藤は打ち明けまい。この紀行文を読まれる方々には興味を引くこととも思えないゆえに。

もう一つの普遍的で、広がりのある悩みについては、ここで打ち明けたい。興味のあるなしは別として、皆さんにとっても何らかのかかわりが生じる、生じてきたことがあるに違いないから。

私はガートで焼かれる人たちを見つめ続けていたが、ある異様な光景に目が止まった。

ある遺体が、火葬されず、布にくるまれたまま、河に落とされてしまったのだ。

私は驚いた。なぜ、焼かれもせずに河に投げ入れられてしまうのか。火葬するお金がないからなのか。分からない。しかし、あまりにむごいと思える死者への仕打ちに憤慨の気持ちさえ沸いてきた。

インド紀行(66)ヒンドゥーが抱える大いなる矛盾

インド滞在18日目 ベナレスにて

私は近くにいた男に、なぜ火葬されずに河に放り込まれる遺体があるのか、聞いてみた。

すると男は、そんなことも知らないのか、という表情をしながらも、出家した僧侶と子どもは火葬をしないのがヒンドゥーの決まりなのだと、淡々と話した。

その理由を聞いたかどうかは記憶が定かではないのだが、私は何か釈然としないものを感じてならなかった。

私はさらに考えを遡上させていった。

ヒンドゥー教はなぜ、カーストという信じがたい身分制度を綿々と、現在に至るまで継続してきたのだろう。

人は生まれながらにして、身分の高低が決まっている。しかもそれは一生変更不可。そして職業すら身分の高低によってしばられてしまう。

そんな大いなる矛盾が現代にあってもまかり通るヒンドゥー教という宗教、そしてインドという国。私には到底、理解しがたかった。むしろ腹立たしかった。

しかし、私に説明をしてくれた男をはじめ、ガンガーに死に場所を求めに来る人々は決まって、澄み切った、あきらめきった表情をしているではないか。

私の心の中が今、怒りで燃えているような、そんな濁った顔をした人を探し当てることはむしろ不可能だ。私はそんな気がした。

なぜ自由を求めようとしないのだ。

なぜ宗教に縛られたまま、あきらめてしまうのか。

なぜ信仰に疑いの目を向けようとしないのか。

私の頭はそんな疑問と煩悶で、いつまでもぐるぐると渦を巻いていた。

インド紀行(67)考える時間はたっぷりある

インド滞在18日目 ベナレスにて

少し気分が悪くなった私は、マニカルニカ・ガートを離れ、最初に子どもたちに案内されたガートに戻った。
何の変哲もないガートではあるが、なぜか落ち着く。そういう場所はどこにでもあるものだ。

もう一度、私はさきほどの疑問を繰り返してみた。

なぜ、彼らは宗教に自由を求めようとしないのだろう。

私には到底、理解できないことだった。もし、私が彼らの立場にあったら、あのようなあきらめきった顔などできない――そう感じてならなかった。

辺りは既に暗くなっていた。

沐浴をする人々の数もだいぶまばらになっていた。

帰り道が心もとないこともあり、またここに滞在する時間はたっぷりある、きょうはこれで引き上げるかと腰を上げて歩き出した。

帰り道、お腹がやけに空いていることに気づいた私は、少々回り道をし、立ち並ぶ屋台でサモサを一つずつ食べ歩いてホテルに戻った。

ベッドに横になり、私は昼間の出来事を思い起こしていた。さまざまな思いがよみがえり、交錯した。考えても考えても、何一つ答えは出なかった。きょうはこれ以上、何も考えることはできない。無理だ。

時間はある。ゆっくり考えることにしよう。

あすは朝からガートに行ってみよう。一日、心行くまで考えてみることにしよう。

インド紀行(68)此岸と彼岸のコントラスト

インド滞在19日目 ベナレスにて

ガンガーの朝は早い。

私は日の出に近い時刻にホテルを出てきたのだが、ガートには既にたくさんの人々が繰り出していた。

私はお気に入りの場所に腰をかけ、ガンガーに身を任せて恍惚とした表情を浮かべる人たちを眺めていた。

朝日が川面に反射し、彼らが瞑想にふける姿は、荘厳と私の目に映った。感動的に美しい光景に完全に心を奪われていた。

太陽が高くなり、川面に立ち上るもやが晴れると、2キロメートル先の対岸が次第にはっきり見えてきた。

きのうはガートや火葬場を見て回るのに忙しく、対岸のことに全く気が向かなかったのだが、改めて目を凝らしてみて驚いた。

向こう岸は何もない草原なのだ。

此岸は、住宅とガートと人でひしめき合う混沌とした世界、彼岸は何もない無の世界。まさに死の象徴するような空間が広がっている。この際立ったコントラストは一体何なのか。

沐浴のために私の隣にやってきた男に、向こう岸には渡ることが可能なのかと聞いてみた。

「行けるさ。渡し船が出てるからな。だが、われわれヒンドゥーが渡ることはない」と話した。

私はなぜかと聞こうとしたが、男は服を脱ぎ捨てるなり、さっさとガートを降り、川に浸りに行ってしまった。

対岸に渡りたくなった私は、船頭をつかまえては、向こう岸に渡ってくれるか聞いて回ったが、なかなかOKの返事に行き当たらない。男が言っていたよ うに、ヒンドゥー教徒が対岸に渡る習慣がない以上、その需要は全くといっていいほどないに違いない。また船頭がヒンドゥーならば、宗教的理由から向こうに は渡るまい。

しかし、私はどうしても向こう岸に渡りたい、いや、渡らなければならないという気持ちが不思議と高じていた。

インド紀行(69)”死”せる岸辺は静寂の世界

インド滞在19日目 ベナレスにて

その後も何人かの船頭に掛け合って、ようやく向こう岸に渡ってもいいという返事を得ることができた。

私はさっそくボートに乗り込んだ。スリナガル以来のボートでの遊覧。しかし、ここベナレスは、風光明媚なスリナガルとは対照的で、美しさとは無縁。ガートに渦巻く生のパワーは、岸から離れつつあるボートまで、強烈に伝わってきた。

対岸までの距離は約2キロ。片道だけでも数十分はかかりそうだ。

河の中央付近に近づくと、水面に浮いては沈む大きな魚のような影がやや離れたところに見える。何の魚だろうと、じっと目を凝らすと、それは何とイルカだった。
ガンガーにイルカが生息しているというのは、意外だった。

さすが大河だ。住んでいるもののスケールも大きい。

ただ、何を餌にしているのだろうかと考えてみた。イルカは草食だったか、肉食だったか。あのかわいい容姿から、肉食とは考えにくい。ん? でもイルカショーで確か小魚をあげていたような気もするが……。
そんなことを考えているうちに、ふと残酷な想像が浮かんでしまった。

まさか、焼かれずに放り込まれた遺体をイルカが……。

私は頭を振ってその忌まわしい想像を中断した。

ガート側の岸は、もうすっかり遠くなり、喧騒も全く聞こえなくなっていた。静かだった。久しぶりの静寂の世界。

インドはうるさい国である。人の声は大きい、ラジオは大音量、自動車、リキシャは所構わずクラクションを鳴らす。
そんな騒音に慣れてしまったせいか、無音の世界が新鮮であり、逆に違和感すら覚えた。

岸に着き、ボートを降りた私は、船頭に断って、しばらくここにいさせてもらうことにした。

インド紀行(70)イルカの背中に乗ってみよう

インド滞在19日目 ベナレスにて

ガートの対岸には、本当に何もなかった。ただの草むらが続くのみ。改めてインドという国の”すごさ”を実感することになった気がする。
神聖な祈りの場である此岸のガートに相対する彼岸であるここは、不浄の地と信仰上、定められ、それが何百年、いや何千年という歳月にわたって、それが信じられ、守られてきているのだ。右手は浄、左手は不浄などと同様に。

私はカースト制度がこの21世紀においても何も変わろうとしないのも、全く不思議ではないと思い始めた。
彼らに問い掛けても、返ってくる答えは、「何か問題でも?」といった感覚に違いない。

そのようなことを矛盾ととらえ、真剣に考えること自体が何だか馬鹿らしく思えてきた。ただの自己満足、一人相撲。

私は草を1本ちぎり、口にくわえてみた。青臭い雑草の味がゆっくりと伝わってきた。

よし、船の帰りはあのイルカたちと戯れてみるか。沐浴でただ漬かっているよりよっぽど面白いぞ。

私は立ち上がり、休んでいた船頭に声をかけ、帰る旨を告げた。

船頭はもっと長く休んでいたそうな、やや不満げな顔をしたが、すぐに船に向かって漕ぎ出す準備を始めた。

船に乗り込んだ私は、「イルカがいたら、できるだけ近づいてくれ。イルカに乗ってみたいんだ」と話すと、ジョークを言うなと船頭は肩をすくめた。

残念ながら、船は一度もイルカに遭遇することはなかった。ゆえに、イルカの背中に乗ろうとした私の計画も遂行できないままに岸に着いてしまった。
もし、イルカに遭遇していたら、本当につかまえて乗ろうと試みたか、それはそうなってみない限りわからないことだ。

インド紀行(71)現地に溶け込む自分に満足

インド滞在19日目 ベナレスにて

此岸にたどり着いた私は、ただ何も考えることなく、ガンガーに見入っていた。

ただひたすら。

私は考えるためにここにやってきた。しかし、考えたところで、考え抜いたところで、答えは出そうにないことを悟った気がした。

ならば、無駄に考えることはすまい。

私はただ、ガンガーと、ガンガーに抱かれる人々と、ガンガーに浮き沈みする人の遺体の灰を眺めて時を過ごした。

明けてベナレス4日目。

私は気分転換のつもりで街歩きをすることにした。

ガンガーとは逆方向、巡礼者も、観光客も絶対に踏み入れそうもない町を求めてさまよい歩いた。

民族衣装を着て、適度に髭が伸びて、顔もすっかり焼けて、私はほとんど現地に溶け込んでいたといっていいだろう。
自身、田舎町歩きは全くと言っていいほどに違和感がなかった。

「バクシーシ」と近寄ってくる子どもたちは相変わらずだが、私が現地人でないことに気が付くと、びっくりしたような、戸惑うような表情をした。

私はそんな私に満足だった。

これでいい、これでいいんだと心の中で反すうし、知らない町をただ歩いていた。

すると、人だかりが出来ていた。何事だろうと近づいてみた。男の肩越しに人の輪の中を覗き込むと、老人が横たわり、動かなくなっていた。

その老人は既に亡くなっているであろうことはすぐにわかった。

インド紀行(72)行き倒れの老人、危険な大道芸

インド滞在20日目 ベナレスにて

行き倒れて亡くなった老人を取り囲んで、男たちは何かを話し合っていた。おそらく老人を火葬場に運ぶ手立てなどが話されていたのだろう。
老人は身寄りがなく、死に場所を求めてここベナレスに来ていた。そして、待ち望んでいた死をこうして迎えた。そういえば老人の死に顔には心なしか笑みが浮かんでいる。
男たちにとっては、こうした場面に遭遇することは日常茶飯事に違いない。
この老人もあのガートで焼かれ、そしてガンガーにまかれる。このようなことが何千年と繰り返されてきたのだろう。

私はその場を離れ、歩き出した。

すると小さい公園にまたもや人だかりがあったので、近寄ってみた。

一人の男が針金を片手に何かを説明している。周囲の野次馬は文字通り、野次を飛ばし、男をけしかける。
大道芸の一種だろう、と私は思った。
ところで一体、何の芸をしようというのか。

一通りの口上を終えると、男は自分の体に針金を巻きつけ始めた。しかもただの巻きつけ方ではない、見た目にもかなりきつい巻きつけ方である。
お腹、胸、手足に器用に針金をぐるぐると巻きつけていく。

見ているこちらが息苦しくなってきた。

男は最後に顔にまで針金を巻き始めた。しかもこれが最後とばかりに力いっぱいに締め付けて。
私は馬鹿げている、あんなことをしたら死んでしまうではないかと真剣に思った。

しかし、周囲の男たちはそれがさも当たり前で、普通のエンターテイメントを楽しむような表情をだれもがしていた。

男の顔は明らかに紫色に変色し、苦しさが伝わってきた。それでも男はその芸をやめようとしない。

私は気分が悪くなり、その人の輪から離れるしかなかった。

インド紀行(73)仏陀が見たガンガーの月影

インド滞在20日目 ベナレスにて

明けてベナレス滞在5日目。

私は歩き回ることをやめ、一日、ガートに座り、ガンガーと向き合うことにしようと思った。

無用な問題については考えることはやめた。それは以前に述べた通りだが、自身、つけるべきけじめについては、まだ結論が出ていなかった。
インドに来た目的はそこにあった。その課題に何らかの結論を出すために、インドを選んだ。だから、それが出せるまでにはここから帰れない。
私はそう思いながら、ガンガーの雄大な流れを見つめ続けていた。

5時間、6時間と時間は過ぎ、やがて日が沈んだ。

完全に暗くなり、沐浴の人々もほとんどいなくなったガートで私は一人、膝を組んでじっとガンガーの水面を眺める。

ふと、月の影が目に止まった。この日は満月の夜。さざめく川面にゆらゆらと月の光が反射していることに気が付いた。

「仏陀も、このガンガーに映ったこの月を見たのだろうか」

私はそう思った瞬間、日本に帰ろうと気持ちが動いた。

インドに来て、初めての感覚だった。それまでは、インドにできるだけ長くいたい、ということばかりを考えていた。できれば日本に帰りたくないと。

しかし、私は仏陀が見た川に浮かぶ月の影に背中を押されたような気がしたのだ。なぜなのかは分からなかった。そして、今でも分からない。ただ、心の中から、「もう一度やってみよ」というかすかな声だけが聞こえた気がした。

私は立ち上がり、「よし、もう長居は無用だ。帰るぞ」とつぶやいた。

私は不思議にもあれだけ離れたくないと思っていたインドから、一刻も早く抜け出したい、日本に帰りたいという気分に既に支配されていた。

インド紀行(74)人と車の渦に飲み込まれて

インド滞在21日目 ベナレス→カルカッタ

翌朝、私はガンガーに別れを告げるときびすを返して、カルカッタ行きの列車に乗るために駅へ向かった。

数日前、駅の警察官から盗難証明をもらうために、汗水たらし頑張ったことが遠い過去のようにも思える。

カルカッタ行きの2等席。カメラは盗まれたし、壊れたし、もうよい。
1等で散々な目に遭った私は、むしろ2等席の方が落ち着く。私は車窓の外、いつものインド的風景を眺めつつ、いよいよこの旅も終わりに近づいていることを実感していた。

カルカッタに着いたのは、翌早朝だった。

まず驚いたのは、駅舎の大きさだった。巨大なドームのように屋根が天を覆い、柔らかな光になって降り注いでいる。
これまでそう数多くの駅に降り立ってきたわけではないが、ここのスケールの大きさは格段のものだった。

駅舎を出るとさらに驚かされた。

人、リキシャ、車……往来を埋め尽くすすべてが折り重なるように移動している。まさに喧騒の渦、るつぼ。

カルカッタ、聞きしに勝るインド的光景をいきなり味わわせてくれたものだと感心するばかりだった。

ところが、私は既にこのインドの典型的な空気のカルカッタで長居するつもりはなかったので、さっそく航空会社へ帰りのチケットの予約をするために行動を起こすことにした。

あすの予約がとれればそれでも構わない。帰るんだ、日本へ。

そんな気持ちは相変わらずだった。

航空会社オフィスの場所もわからないので、私はタクシーを捕まえ、「タイ航空のオフィスへ」と運転手に告げ、タクシーのほとんどがこの車種である国産車、アンバサダーに乗り込んだ。

インド紀行(75)チケットの予約に航空オフィスへ

インド滞在21日目 カルカッタ

航空会社のオフィスはフーグリー河を渡って、チョウロンギ通りを南下しなければならない。3、4キロはあろうか。
ところが、タクシーはハウラー橋で立ち往生したまま、全く動かなくなってしまった。とんでもない混雑ぶりで、この調子ではいつたどりつけるかわからない。

「いつもこのような状態なのか?」と運転手に尋ねたが、わかりきったことを聞くな、という無言の答えが背中から返ってきた。

気持ちは急いていた。しかし、相変わらず客観的には、私が早く日本に帰らなければならない理由は何一つなかった。

そうだった、私はまだインドにいるんだ。何を焦っているんだ。インド最後の数日を、せめてじっくりと過ごそうではないか。

まだ橋の途中だったが、私は運転手に、ここでいいよと告げ、タクシーを降りた。歩いた方が遥かに速いのは確かなのだが、道行く人々の数も半端ではない。
4000万人を超える人口は何と東京の約4倍に匹敵する。カルカッタがどれほどの広さなのかはわからないが、想像するだに息苦しくなってくる人口の濃さである。

リュックとカメラバッグを抱えての長行は、異様な暑さも加わって、体力を容赦なく奪っていった。

先にホテルを決めてしまおうかとも考えたが、とにかく帰りの飛行機の席を確保すること、これがその時の私にとって、何を差し置いても優先されるべき事柄だった。

やっとの思いでタイ航空のオフィスに到着。私の体力はもはや限界に達し、体中から汗が噴き出し、しばらく止まらなかった。

しばらく涼んで落ち着いてから、とソファに座り、汗が引くのを待った。

私はオープンチケットとパスポートを取り出し、カウンターの女性に対し、一番早い、バンコク行きの座席を尋ねてみた。

インド人と思われる女性はすげなく「7日後になります」。

「7日?」

本来なら、カルカッタ7日程度の滞在は当然のことだろうが、帰宅モードに入っていた私は、そんなに待たされるのか感でいっぱいになった。

インド紀行(76)南国のバカンス気分に浸りたい

インド滞在21日目 カルカッタ

いくら食い下がったところで、らちが開きそうになかったので、仕方なく1週間後のバンコク行きのチケットで予約を入れてもらった。

航空会社のオフィスを出て歩きながら、私はこのカルカッタで1週間をどうすごせばいいのか考えた。

最もインド的な土地でありながら、あまりイメージを抱かずにきたカルカッタ。何がある街なのだろう。

とにかく、暑さと長距離にわたって歩いたことで、疲れは限界を超えていた。

ホテルで一休みすることにしようと、目に付いた中級クラスのホテルに飛び込んだ。
決して安くはなかったが、旅も最終盤となったことで、残りのお金の心配をする必要もさほどなくなった。このカルカッタでは多少のぜいたくでもしてみようかと荷解きをしながら考えた。

すると私の頭にふと、南国のイメージが浮かんだ。

そういえば、今回の旅は北中心だったから、南のよさを味わう機会がなかったな。

かといってマドラスまで足を伸ばすには時間が足りない。そうだ、適当な距離にいいリゾートでもあれば……とガイドブックで探してみると、あったあった。プリーだ。
カルカッタから300キロ程度離れているが、夜行列車に乗れば翌早朝には着くという。

よし、ぜいたくするにはもってこいのロケーションだ、ここでゆっくりと南国のバカンス気分を味わおう、と決めた。

私はそれまでの心身ともに重い気分から急に解き放たれたような気がした。

今晩はホテルに入ってしまったし、もう無理だから、明日の晩、発つことにしよう。楽しみだ。

当時、私が好きだったギタリストの高中正義のトロピカルなメロディーとフレーズが私の頭で鳴り、既に気分はバカンスに浸っていた。

インド紀行(77)モイダン公園でくつろぐ

インド滞在22日目 カルカッタ

プリーへの出発は夜になるので、それまではホテルを確保しておくことにした。外に出るにしても、大荷物を抱えたままでは、きのうのように体力を消耗してしまうばかりだ。

朝食を済ませ、ホテル近くのモイダン公園に行ってみた。

モイダン公園は東西1キロ、南北3キロにわたる巨大な緑地。あまりに騒々しいカルカッタにおいては、まさに都会のオアシス。
家族連れなどが思い思いの姿で寝転んだり、話にふけっていたり。極めて平和な風景がどこまでも広がっていた。

私も芝生に横になり、大きく伸びをし、広がる紺碧の空に向かって胸いっぱいの深呼吸をした。

私はふと考えた。

そういえばなぜ、ブッダガヤを通過してカルカッタに来てしまったのだろうと。

私は仏教徒である。正真正銘の。その意味では、当初からベナレスではなく、ブッダガヤを目指すべきだった。

なぜブッダガヤをスルーしてしまったのだろう。どうして。旅も最終盤に至った今さらながら、そんなことを思ったりした。

なぜだろう。

私はいつの間にか寝入ってしまっていた。それほどに公園に吹く風はさわやかでやさしかった。

目覚めた私はまだ同じ気分を引きずっていた。

どうしてブッダガヤではなく、ベナレスだったのか。

ぼんやりとした頭に、かすかに見える建物の存在が気になった。私は立ち上がり、その建物に近づいていった。

インド紀行(78)生々しい弾痕から叫喚が聞こえる

インド滞在22日目 カルカッタ

私が目指した建物が何だったのか。残念ながら思い出せない。ガイドブックやネットでも心当たりをいろいろ調べてみたが、私の記憶に一致する建造物は見当たらなかった。

建物の名称は忘れてしまったが、その建物に刻印された生々しい弾痕を忘れることはできない。
私の記憶では、その建物の前で多くのインド人がイギリス兵に射殺された、というものである。
なぜ、そのような具体的な事象を覚えているのかといえば、その建物内は一般公開され、その”事件”の内容について詳しく展示していたからだった。
その中で特に印象的だったのは、大きな壁画のようなもので、それは逃げ惑うインド人に容赦なく銃砲が向けられるという地獄絵図であった。

私は改めて、モイダン公園の平和な風景は、こうした犠牲と闘いの上に獲得されたものなのだということを実感した。

私は建物の外に出て、もう一度、壁に刻まれた無数の弾痕を見つめ、この壁に追い詰められ、死を覚悟せざるをえなかった人々の思いを馳せるとともに、聞こえてくる叫喚に身が凍るような感覚にとらわれた。

私はその壁に向かって合掌をした。

モイダン公園を出た私はサダルストリートを歩き、屋台で腹ごしらえをしながら、土産物屋をひやかし歩いた。日本語が堪能な土産物屋の男がしつこく声をかけてくる。振り切ろうとするが、いつまでもどこまでも着いてくる。
土産物はスリナガルでたんと買い込んだ。もう何一つ必要ない。

だが、プリーで必要とする海水着は買う必要があった。それから、香も。海辺のリゾートは香の演出が必要、なぜかそう感じていた。私はあまりにしつこくつきまとう男にさすがに根負けし、男の土産物屋で香を買った。

一度ホテルに戻った時には日も暮れ、すっかり暗くなっていた。

インド紀行(79)素朴な海水浴場に心安らぐ

インド滞在23日目 プリー

プリーはイメージしていた南国リゾートの雰囲気とはだいぶ違っていたが、むしろ私は気に入った。

素朴な海水浴場の趣。

気取ったリゾート地より、気の置けない海水浴場の方が好きだ。

そうだな、日本でいえば、九十九里の片貝海岸。

宿も海の家風で何の飾り気もない。さっそくカルカッタの土産物屋で買った香を焚いてみる。

うーん、さすがにインド。かなりきつい香り。心を癒すよりむしろ昂じさせる効果あり、というところか。

海岸線を歩いてみる。

本来なら海へ泳ぎだすか、サーフィンでもできればしたいところだろうが、残念ながら私はサーフィンどころか泳ぐこともできない。

できることは、ひたすら海を眺めるのみ。

海岸を歩くとジュースを飲ませてくれる出店を見つけたので、私の好物のマンゴージュースを注文。ただひたすら海を眺めていた。

翌朝、きょうもゆっくりと海を眺めにいこうかと宿を出ようとしたところで、オーナーの息子が私を呼び止めた。

「これから地引網があるから見に行かないか。場合によってはいい魚が手に入るかもよ」

地引網か。なかなか面白そうだ。

私は息子にぜひ連れていってくれと、お願いした。

さて、どんな魚がここで捕れるのか。私は興味津々で息子の後をついて砂浜を歩いていった。

インド紀行(80)地引網を初体験、感動の一体感

インド滞在24日目 プリー

たくさんの人が群がっていたので、それは地引網であることはすぐにわかった。

息子に「一緒にやってもいいのか」と聞くと、もちろんとうなずいたので、私は空いている網をつかみ、周囲とタイミングを合わせつつ、網を引いた。

楽しかった。

日本さえ一度も経験したことがない地引網を、このインドの地で真剣に取り組んでいる自分がおかしく、同時に感動すら覚えた。

どんな掛け声かは忘れてしまったが、やはりこうした共同作業にはつきものであって、それが一体感を強める。これは万国共通である。

完全に網を引き上げるまでには30分近くを要しただろうか。

網元の漁師が水揚げを籠に移していく。大物には歓声。

私は息子が言った通り、もしいい魚があがれば、買って昼ご飯のおかずにでもしてもらおうと考えていた。

息子に「何を買えばいいか」と聞くと、息子、「そうだな、きょうはこれといった魚はあがってないから、サメなんかどうかな」。

「サメ?」

私の記憶では、サメは基本的に練り物の原料となるもので、調理して食べたことがない。

「うまいのか?」

「なかなかいけるよ」と息子。「俺が調理してやるから、心配するな」と付け加えた。

サメかぁ、面白いかもと思った私は、漁師にサメを分けてもらうように交渉してみた。

インド紀行(81)サメチャーハンの味はよかったが…

インド滞在24日目 プリーにて

「いいサメはあがったか」と聞くと漁師は無言で体長50センチほどの小型のサメを網から探し出し、私の目の前に「どうだ」。

判断のつかない私は息子に目配せをして、「どうか」と尋ねると、彼はうなずいた。

「それをもらおう」

交渉は成立した。

しかし、本当にこのサメが美味なる料理に変わるとはどうしても思えなかった。

宿へ帰る道すがら、私はサメを肩にぶらさげた息子に、サメをどう調理するのか聞いてみた。

焼き飯にするという。サメチャーハンとでもいうべきか。

うーん、どんなものなんだろう。想像がつかなかった。

宿に着くと、息子はさっそく調理にかかるから、少し待ってろという。
いくら小型とはいえ、サメ1匹を食べきる自信がなかった私は、よかったら君の家族にも分けてあげてくれないかとお願いした。

息子はわかった、その通りにしようと言い残し、調理場へ消えた。

そして待つこと30分。

大皿にたっぷり盛られたサメチャーハンがテーブルにどんと無造作に置かれた。

さて、味はどうなのか――。

予想していたことだが、パサパサ感が否めない。米はもちろん、サメの身が。味はいいのだが、何しろ食感が悪すぎる。比較しては申し訳ないが、レーで食べたマトンご飯のしっとり感とは真逆、対照的だった。

私は息子に「グー!」と親指を立てたものの、内心は果たして食べきれるだろうかという不安で満たされていた。

インド紀行(82)オベロイ・グランドに宿泊

インド滞在25日目 カルカッタにて

カルカッタに戻った私は駅からまっすぐオベロイ・グランドホテルを目指した。
オベロイはカルカッタで最高級のホテル。私は当初からカルカッタでの最後の数日間はここに泊まろうと決めていた。デリーのY宅に滞在させてもらった折、運転手のマイルスに、お勧めのホテルを聞いておいたのだ。

これまでの20数日間は、中から下級ホテルに泊まってきた。日本円にして2000円から最高でも5000円程度。水シャワーのホテルが多かったが、それでも特別な問題を感じるようなことは一度もなかった。

そうした中下級のホテルは十分に経験してきたところで、もう一方の高級ホテルがどのようなものであるかも知る必要があると思ったからだ。

オベロイの1泊の値段は約2万円。日本でも高級の部類に属する値段といっていいだろう。

当然、ホテルマンの身のこなしは洗練されており、しっかりとした英語を話す。これまでのホテルとはまさに天地雲泥の差を感じる。ホテルを歩く客層も いかにも富裕そう。マイルスから聞いた話だが、自家用機をもった富豪が泊まりに来るのだと。まさにそういった雰囲気がホテル全体から伝わってくる。

私は2人のホテルマンに荷物をそれぞれ持ってもらい、部屋へ案内された。もちろん、インドでは初体験のこと。

部屋の中もすべてが高級感たっぷりだった。プリーでの疲れ、そしてこの1か月近くのインド旅の疲れがここに来てどっと出たのか、私はベッドに横になるなり、動けなくなってしまった。

最後に残された課題だった映画鑑賞に行くつもりだったが、起き上がることができない。

私は「いいや、せっかくの寝心地のいいベッドで一休みさせてもらおう」と着替えもしないまま、眠ってしまった。

インド紀行(83)トロピカルなホテルのカフェで

インド滞在26日目 カルカッタにて

翌朝、私は朝食をホテルのカフェでとることにした。

パン、サラダ、ハムエッグなど、定番のセットを注文するが、数千円はするところがやはり高級ホテルである。下級ホテルの1泊分以上。

カフェは南国の密林をイメージした装飾が施されており、まるでアンリ・ルソーの絵のようだ。BGMには鳥の鳴き声が流され、雰囲気をかもし出している。
私はわざわざ訪れたプリーではなく、意外な場所でトロピカルムードを味わうことになった。面白いものだ。私は気合を入れても結局最後まで食べ切れなかったサメチャーハンのパサパサ感を思い起こしていた。

「このホテルのシェフがあのサメを調理したら、どんなものになっていただろう、もう少しましなものになっただろうか。いや、息子が心を込めて作ってくれたものだ、そんなことを考えちゃいけない」

1か月ぶりの、すっきりとしたコーヒーをすすりながら、そんな堂々巡りの考えに浸っていた。

私はあす、インドを発つ。

いよいよである。そしてきょうがインド最後の日。

さてどのように過ごすか。映画を見るというプランは残っていた。しかし、私はむしろ何も考えることなくゆっくりくつろぎたいと思った。

朝食を終えた私はプリーに向かう前にも訪れたモイダン公園に再度足を踏み入れた。

広大な公園を1周してみようと歩き出す。10キロ近い距離を歩ききるのは無理だとは思いつつ。

2、3キロ歩いたところで、さすがに疲れが出て、芝生の上に腰を下ろした。そして寝転んで、空をあおいだ。

すると、突然、空を覆う黒い影が。何かとその影に焦点を合わせると、それはインド人が私の顔を覗き込んでいたものだということがわかった。

インド紀行(84)青シャツの大学生との対話

インド滞在26日目 カルカッタにて

私は上体を起こし、私の顔を覗き込んだ主の顔と正面に向き合った。

その男は小柄で痩せ気味、青いシャツを着て、珍しくひげを蓄えていない。そして私に向かって満面の笑みをたたえていた。

「あなたは日本人ではありませんか」

ええ、その通り、私は日本人です、と答えると男は、日本に興味をもっているので、日本人らしいあなたに声をかけてみたと話した。

なるほど、こちらとても特に何をしたいことがあるわけでもないので、彼の興味のままになってみることは一向に差し支えなかった。

彼は大学生だった。見た目にはずっと年上に思えたが、実は数歳と年が変わらないことがわかり、話はよりスムーズになった。

私はこれまで約1か月にわたるインド旅をかいつまんで話をした。いい思い出も刻めたが、思わぬ災難にも見舞われたことなど、エピソードを陳列してみた。
すると彼はよほど人柄がいいのであろう、私の話でいい場面では、おお、素晴らしい、という喜びに満ちた表情をし、悲惨な場面では、この世の終わりといった悲しげな表情に変わる。素晴らしき聞き上手である。
ゆえに私の拙い英語でもその意図は伝わっているようだったし、私は英語が突然上達したように錯覚してしまった。

一通りのエピソードを私が語り終えると、彼は私にこう質問した。

「あなたの信仰はなんですか」

私は間髪を入れず、「私はブッディストです。生まれた時から」と答えた。

彼は目を閉じ、深くうなずいた。そして、

「私はヒンドゥー教徒です。生まれてこのかた」と彼は手を胸に当てた。

私と青シャツの彼は、どちらからともなく、握手を交わした。

インド紀行(85)出会いの記念にそれぞれ歌を交換

インド滞在26日目 カルカッタにて

私と青シャツの大学生は、その後もさまざまな話題について語り合った。

彼はいつか、日本に行ってみたい、と希望を語り、私はぜひいらっしゃい、案内しますよと応じた。

本当に実現してほしいものだ、と私が将来のその光景を想像していると、彼はすくっと立ち上がった。

「きょうの出会いの記念に」と言い、急にまじめな顔に変わるやいなや、彼は歌を歌い始めた。どのような節の、なんという歌であったかは、今ではわからない。しかし、歌う彼の表情が真剣そのものだったことは鮮明に覚えている。
モイダン公園に流れる彼の歌声は見事で、私の旅の最後を飾るにふさわしい記念となることは間違いなかった。

私は目を閉じて聞き入った。

彼が最後のフレーズを歌い終え、私は拍手をした。そして、何かの返礼をしなければならないだろうことが思い巡っていた。

歌の真心には、やはり歌で返すべきだろう。しかし、何を歌う?

私は、この場にふさわしく、なおかつ歌詞を見ずに歌える歌が果たしてあっただろうかと考えた。

ふと、ひらめいた。子どものころから好きで、なおかつ日本の歌謡曲を代表するような曲で、歌詞を見ずに歌える曲――これしかない。

彼との再会を期して。そしてインドとの別れが近づいた今という点においても、ふさわしい曲だろうと私は思った。

私は立ち上がり、まずイントロを口ずさんだ。

「パッパパラララ、ドゥン。パッパパラララ、ドゥン。パパーパーパーパー、パーパーパー、ズンズンズズン、チャチャチャ、ズンズンズズン、チャチャチャー」

「また逢う日まで、逢える時まで……」

私は最後までつまずくことなく歌いきることができた。

インド紀行(86)再会を約し別れ、髭を剃る

インド滞在26日目 カルカッタにて

私が歌い終えると、彼はありったけの拍手を私にくれた。歌の出来はともかくとして、私は彼に喜んでもらえたことがただうれしかった。

私たちは立ち上がり、もう一度、固い握手を交わし、再会を約して別れを告げた。

ヒマラヤの奥地のレーを出て以来、孤独な旅が続き、出会いそのものは全くといっていいほどなかったが、インド滞在最終日に、このような出会いをもたしてくれた偶然に私は感謝した。短いつきあいではあったが、私は彼のことは生涯忘れないであろうと思った。

彼と別れて歩き出した私は、髭のない彼の顔をしっかりと記憶にとどめておこうと頭に懸命に焼き付けた。そして、ふと、自分の髭のことが気になった。1か月伸ばした私の髭は、かなり成長しており、道行くインド人に劣らぬほどになっていた。

「髭を剃ろう」

私は床屋を探して歩いた。かなり歩いてようやく床屋が見つかり、おやじさんに髭を剃ってもらうようにお願いした。

おやじさんは、「もったいないな、いいのか」と言いつつ、クリームをあごに丁寧に塗っていった。
あご髭が落とされ、おやじさんが口髭を落とそうとした時、私は思わず、「待って」と制止した。

「やっぱり、口髭は残してくれるかな」

特別な理由はなかった。でも、なぜか突然、そうしたいと思った。

「ハイヨ、終わった」

これでよし。

ひと月ぶりにすっきりしたあごをなでつつ、私は床屋を出た。

インド紀行(87=編集中記)記憶が飛んでしまっている

約1か月にわたるインドの旅は、このカルカッタの地、そして床屋さんを出たところで終わった。
この後は、バンコク経由で日本に帰るのみだ。
80数回にわたって記憶を頼りに旅の行程を、ほぼ完全といえるほどに再現してきたが、なぜか床屋を出て、バンコクに至るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちている。ある意味、大事な場面だろう。なぜなら、多くのものを私に与えてくれたインドに別れを告げる際には、さまざまな思いが去来したに違いないのだから。全く薄情な男である。忘恩の輩とは、このような男のことを指すのだろう。
しかし、それにしてもおかしい。

これまでは何とか記憶の断片を頼りに各地であったことが少しずつ手繰り寄せられ、蘇ってきたものだが、不思議とこの間に関しての記憶は戻ってきてくれない。

そういうわけで、このインド紀行は、未完成のまま、1年以上も放置されてきたわけだ。
なぜなら、プロローグがあるのに、エピローグはない。どう考えても、書き物としては不完全と言わざるをえない。

そこは飛ばして、バンコク編に移ろうかとも考えた。しかし、なぜか気が進まなかった。なぜだろう。実際のところ、自分にもよくわからない。
正直、疲れた、というのが本音のところだろう。肺炎で入院中から書き始めたインド紀行はなぜか毎日1回分をアップというペースができてしまい、気がついたら、その毎日アップというものが至上命題になってしまっていた。
手段が目的化してしまう、”ゴールディスプレイスメント”の罠にはまってしまった典型といえようか。自分はこれだけよくなったんだ、ということを自分にも言い聞かせたいし、周囲にもわかってもらいたいという思いが先行してしまったのだと思う。

床屋を出て、えっとどうしたっけ……??? と記憶が途切れた瞬間、緊張の糸もぷっつりと切れたのだと思う。
いいや、ここで終わろうと。
まだ途中? そんなもの、どうでもいいだろう。だれに締め切りを迫られているものでもなし……と。

新しいブログを立ち上げ、これまでいくつかに分散されてきたブログをひとつに統合する作業を終え、一区切りついた今、なぜかようやく、インド紀行の完結へのモチベーションが高まってきた気がする。
やはり自分の中で、中途半端なままにしておくことの気持ちの悪さというか、落ち着かない気分というか、そういうものを感じ続けてきたのだろう。

もちろん、今回は毎日アップを自らに課すようなことはしない。あくまで自分のペースで書いていこうと思う。
たった5日間のバンコク滞在なので、あっというまに終わってしまうだろうと思う。

(終わり)

骨髄異形成証拠群発症~臍帯血移植~人工透析生活へ