距離道楽パート2

人前で話すことが苦手。人見知りも激しい。

だから、そういう場(スピーチの類)は極力避けるようにしている。

普通なら、そんな生き地獄を味わうような状況には無縁な生き方ができるようになるはずだが、自分の場合、始末が悪いのが、話をすること自体は決して嫌いではないことである。

一対一の対話などは、大好きで、興に乗ってしまった場合などは時間を忘れて、ぺらぺらと何時間でも話してしまったりする(もちろん、相手のキャラクターに負うところ大だが…)。

そこに大きな落とし穴がある。勘違いされるのだ。

それだけ話せるなら、スピーチもいけるだろうと。

「同じ調子でやってくれ」などと軽く言われる。そんなことを安易に言われると、腹が立つというのを通り超して、人間の心理というものを一から勉強し直してください、とまじで言いたくなることがしばしばだ。

そんなことを事もなげに言ってしまう人は、対話、もしくは会話とスピーチが、似て全く非なる性質のものということがわかっていないとしか言いようがない。

相手が一人、または少人数の場合は、会話の流れからそれぞれの心や感情の動きをこちらがある程度、把握しながら話を進めていくことができる。よく言われるキャッチボールである。ストレート、変化球、フォークボールなど、相手が投げてくる球種によって、こちらもそれらに応じた球種で返すことで、「あ、この人分かってる」「ん? ひねり入れてきたな、じゃあ、こっちはこれで」などと、展開できるのだ。だから、相手の思考パターンや関心、経験の度合いなどによって、こちらもそれに見合うチャンネルを用意し、その都度切り替えながら、話を進めていける。これが対話、会話の醍醐味であると思う。

しかし、聴衆に対するスピーチは、この方法が使えない。よく「一人に向かって話せばいい」などと言われるが、あれはウソだ。そんなことはありえない。明らかに目の前にいるのはマスだ。個々人の集まりではなく、括られたマスにほかならない。

思うに、対話(このブログもその変形だと思うのだが)とは、最大公約数をいかに見い出すか、の一つの技術だと思う。独白(パーソナルな日記)なら、何を語ってもいい。一人でも語る対象がいれば、そこには共通の話題、つまり話題の最大公約数を見つけながら、話を進めていくことになるのだと思う。

ということは何を意味するのか。話す相手が1人より2人、2人より3人と多くなればなるほど、その人たちをくくる最大公約数は小さくなっていくのは必然だ。つまり、語れる内容は制限されてくるということだ。

こういう場面はないだろうか。

2、3人で話をしていて、共通な話で盛り上がっている。例えばサッカーでもいい。そこにサッカーを全く知らない人が加わる。皆はそれを知っている。それで、サッカーの話題は急にトーンダウンして、新たに加わった人もできる話に移行しようと話題を見つけにかかる……。

人間関係の濃淡や上下関係などにかかわるので一概には言えないが、これは人間は自然と話題の公約数を求める努力をするとの一つの例になると思う。

この考え方を広げていけば、聴衆が多くなればなるほど、最大公約数は小さくなり、「みんな」に共通した話題となり、「公」の性格を増していく。そんな「公」に開かれた話には、私は基本的に興味がわかない。

だから、私は聴衆の前で話をするのも、聞くのも嫌いだ。時間の無駄だと思っている。

つまりは、キャッチボールを不可能とするマスの集まりの場合は、対話能力より、パフォーマンス能力が問われることになる――のだと思う。

『ブロードキャストニュース』というアメリカ映画がある。
テレビ局を舞台に、2人のライバルの男が描かれているのだが、片方は人前が苦手だが、超優秀な記者出身のディレクター。もう片方は頭の切れはないのだが、見目形美しく、しゃべりも流暢という人物。彼らはニュース番組のアンカーマンを目指して対することになるわけだが……結果は言うまでもあるまい。前者は気負って臨んだキャスターの仕事に大失敗。後者は、見事にそつなく原稿の読み上げに成功し、キャスターの座を射止めてしまう。

少し次元は違うが、要は対話とスピーチは同じ話すという技術ではあっても、全く違う技術を要するものであるということが、意外にもきちんと認識されていない気がしてならない。

長々と書いてきてしまったが、結局何を言いたいか。

大勢の前でもあがらずに流暢に話ができる人が、ほんとにうらやましい。

そういうことです。

日時: 2004年09月01日 15:18 | パーマリンク

自己表現――エンターテイメントと自己満足の狭間で

ひよこみるくさんの[エントリー]に思うところあり、TBさせていただきます。

自己表現がエンターテイメントになりうるかどうか――これはエンターテイメントのプロ、アマを問わず、この社会に身を置いている以上は、極めて重要なテーマだと思う。

人は一人では生きられない。かつてジャングル生活を生き抜いた小野田さんや横井さんは完璧に一人で生ききった奇跡の例だが、ほとんどの人は、たとえ引きこもりの人であっても、他人との接触ゼロではこの世の中を生きていくことは不可能だ。

となると、どうしても、いかに人と接していくか、ということを好むと好まざるにかかわらず、考え、判断し、行動していかなければならないことになる。

その意味で、私は、生きること自体が自己表現であり、エンターテイメントであるべきだと思うのだ。ブログに文章や写真をアップする、人前でスピーチする、などの明らかに語りかける対象を意識するような場ではない、日常――たとえば、買い物、隣近所とのあいさつ――に至るまで、すべてが自己表現であり、エンターテイメントといえなくもない。ハレとケの考えでいえば、エンターテイメントを要するのはハレの場においてだけではない。ケにおいてもエンターテイメントを心がけるべきだと。

「常にエンターテイメントを演じてたら、素の自分をいつ取り戻すんじゃない!」という声が聞こえてきそうだ。

しかし、そう感じてしまうのは、エンターテイメント=自分ではない自分を演じること――と定義づけられているからではないだろうか。

私のエンターテイメントの定義は違う。エンターテイメント=自分の素=他人を喜ばせること――なのである。

これが自然となるように、努力するのである。そこに意味を見い出していくのである。

これについても誤解を招く可能性があるので、補足しておこう。

エンターテイメント=自分の素=他人を喜ばせること――そんなの単なる他人への迎合じゃないのか、という声も聞こえきそうだ。

しかし、これについても私の考えではそうではないと思う。つまりは、自分は自分、徹して自分を磨く――これは当然のこと。その磨いた末に表に出てくるもの(表情、言葉、文章、歌、等々の自己表現すべて……)が、他人に受け入れられやすいものなのかどうかを意識すること、少しでも他人を喜ばせることになるのだろうか、ということを考えて、自己を磨いていくこと――は決して不可能なことでも、無意味なことでもない。むしろ、自分を輝かせ、他人をも喜ばせる→輝かせるという、一石二鳥、一挙両得の一つの理想的な生き方ではないかと思うのだ。

それでは、かくいう自分がどれだけ、日常生活を自他ともにエンターテイメントできているのか、と問われればかなり心もとない。ブログのエントリーを見渡しても、生来のあまのじゃく的性格から、他人がいかにも喜びそうなものはほとんど並んでないのが実態だ。

しかし…再三の「しかし」で恐縮なのだが…私が言うエンターテイメントは、他人への迎合とも違う。自己表現を磨く、輝かせることに修練し、自他ともに納得できる水準の表現に至ることができたと思うことができ、それを一たびアウトプットしたならば、後は、他人が喜ぶか否かまでは左右できない。当たり前のことだ。

人にはそれぞれ好みというものがあり、興味の対象や角度もすべて違う。従って、発信したからには、自分の自己表現に何らかの引っ掛かりを感じ、ピックアップし、面白い、楽しい、考えさせられる、など、何らかの形で認めてくれる人の出現をひたすら待つほかはない。

自分がここまで自己表現力を高めているのに、だれも関心を示そうとしてくれないと嘆いたところで仕方ない。それは、多くの人が関心を呼ぶ話題を取り上げてないということにすぎないのだから。

私は私的日記を中学2年生のころからつけ始めたので、途中、かなりの中断はあったものの、都合30年近く日記をつけていることになる。この私的日記は、だれの目にも触れることがないという安心感から、まさに書き殴り状態である。だれに理解してもらおう、なんて努力はかけらも感じられない。当然のことだろう。自己満足そのものの世界だ。

しかし、このブログ日記はそういうわけにはいかない。一日に確実に50から60人の人たちが、一瞥をくれるだけの人から最後まで読んでくれる人まで、それはさまざまであろうが、、私の公開日記に目を通してもらうわけだから。

たとえ、内容は薄かったとしても、何かかしらの伝える意味をそこにもたせなければならないと思う。
内容も吟味する、言葉遣いも慎重にならざるをえない、だれかが傷つくような表現は使ってないか、事実関係に間違いはないか――それなりの細心の注意が必要となる。これらがつまりは、エンターテイメントの精神そのものなのであろう。

これが大事なんだと思う。エンターテイメントの語感から来る、面白い、楽しい、という範疇にまで至る(そこは才能によるべしであろう)ことはできなかったとしても、少なくとも読んでくれた人が、「そっか、このことを言いたくて、この文章を書いたんだな」と納得してもらえることが、自己表現としてのエンターテイメントの最低要件であり、十分条件なのだろうと思う。

日時: 2004年08月31日 17:06 | パーマリンク

生きたがる生命

NHKスペシャルが、『地球大進化』という番組をシリーズで放映している。

地球46億年の歴史において、生命はいかなる進化を遂げてきたかについて、環境変動を軸にたどっていくという内容だ。

・40億年前――巨大隕石との衝突による「全海洋蒸発事変」。つまり、海が干上がってしまった。

・22億年前と6億年前――「全球凍結」。地球全体が氷で閉ざされてしまった。

・2億5000万年前――スーパープルームによる史上最大級の火山噴火とそれに伴う地球温暖化、低酸素化により、95%の生命が絶滅。

と、第4集までは以下のような生命を絶滅の淵に追い込んだ事件について分かりやすく解説している。

ここまで見てきた感想――

生命とはなんと生きたがりなのだろう。

地球上から、水が一滴もなくなる、氷に閉ざされる、酸素が薄くなるなど、生命にとってあまりに過酷な状況が容赦なく襲いかかる。それにもかかわらず、40億年前に原始生物として現れた生命は、一度も途切れることなく、命をながらえ、現在に至るまで生き延び続けているのだ。

なぜ? なんのために?

「死ぬなんてことを考えちゃいけない。生きるんだ、生き抜くことが大事なんだ」と私たちは当たり前のように思うが、まさにこの「死より生を」というプログラムは、私たちの祖先である40億年前に誕生した原始生物から備わっていたものだということを改めて認識させられる。

しかも、進化についても、大型化し、陸にあがり、肺をもち、子宮をもち、手をもったという過程の一つひとつが、地球に課せられた“試練”によってもたらされたものだったということにも驚いた。

もし、地球が何の変化もない、一定の環境を保った星だったら、今に至るまでアメーバ-のような生物がうごめくだけの天体だったという。

改めて思う。なぜ、なんのために生命は生きようとするのか――。

映画「2001年宇宙の旅」は、そこにモノリスの存在を想像してみたわけだが、モノリスが神や究極の意志の存在を示すのかどうか別として、この番組を通して感じることは、目的こそわからないが、なぜか生命は執念をもって生きたがる。
HALによって船外に放り出されたボウマン船長も、宇宙ヘルメットなしでディスカバリー号に戻ることを命令させたのは、彼に本能的にプログラムされた「生きたい」という欲求にほかならない。
宇宙自体にそうした「生きたい」というプログラムが溶け込んでいると考えることは決して不自然なことではなくなる。

小学生だったか、中学時代だったか定かではないが、都筑卓司による『マクスウェルの悪魔』に夢中だった時期があった。

宇宙という存在は基本的には、エントロピーを増大させる、つまり無秩序に向かう傾向をもっている。しかし、宇宙には、目に見えないマクスウェルの悪魔がいて、エントロピー増大の法則に逆らって、原子や分子の移動を操作し、熱を生み出し、物質を作り出し、果てには生命さえも編み出してしまった、と。

衝撃的だった。それまで、当たり前だと思っていたこの世界、物質、そして生命が何かのある力によって形成されてきたことを認識したことは。同時に、自分という無意識のうちに形成されたきた存在を初めて認識できたのは、その時だったかもしれない。

マクスウェルの悪魔の正体は何なのか。

それは自分にとって今に至る大きな謎であり、関心事なのである。

そんな謎解きの一つのヒントをこの番組『地球大進化』は示してくれた気がする。

『地球大進化』、あと2回放送するそうです。次回は9月25日。

日時: 2004年08月28日 17:05 | パーマリンク