いじめはなぜ起こるのか。集団によって人間の心の澱が増幅されるがゆえに

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社会の構造に要因

今回はいじめについて、私なりの考えを述べてみたいと思います。

全国の学校でいじめが後を断ちません。

連日のように、いじめによって自殺した若者のニュースが伝えられ、その状況はより一層深刻化しているように思えます。

いじめは教育の現場にとどまらず、あらゆる社会に存在します。

これほどまでにいじめは悪いことだと社会的認識も高まっているにもかかわらず、なぜいじめを根絶することができないのでしょうか。

もちろん、いじめることに罪悪感を感じない人間性が直接的な原因なのですが、私はその根っこは個人の資質に基づくというよりも、社会の構造にこそ要因があると感じています。

人間に対する感受性が未熟

いじめが発生するメカニズムとして、ある一定の閉ざされた集団が前提としてあるということを何かの文献で読んだことがあります。

集団内には弱者も強者も混在した形で成り立つことが多いですから、自然の原理のごとく、強者が集団を牛耳ることになります。

この強者が、いじめを嫌う体質をもっていれば、いじめは起こりにくいのでしょうが、そうはうまくいかないのが世間であって、往々にして、人間に対する感受性が未熟であったりするものです。

つまり、相手の立場になって物事を考えることができませんから、ただ自己の感情的欲求を満たしたいがためだけにいじめを敢行するようになるのです。

集団はその温床です。

いじめの実行者を取り巻くように扇動するものたち。

それら黒い感情に取り憑かれた者たちの目はもはや人間のそれではありません。

国民挙げてユダヤ人を迫害

かつてナチスドイツも根本的にはこのいじめの構造同様のものだったはずです。

いじめの対象となったのは、当時、世界の金融界をほしいままにしていたユダヤ民族でした。

貧困にあえぐドイツ国民の憎悪を掻き立てるのはいともたやすいことだったでしょう。

国民挙げて、ユダヤ人の迫害に奔走したのでした。

このようにいじめは本来は善良であり、いじめなどを忌み嫌う人間性を持つ者が、集団の力学によって、感覚が麻痺させられ、いじめをしなければならないというところに精神的に追い込まれることによって手を染めてしまうのです。

このいじめの構図、構造を変える方法はないのでしょうか。

いじめの温床が集団にあるならば、極論から言えば、集団を作らないということにほかならなくなります。

しかし、高度に社会が発達した現代にあって、集団の存在がなければ成り立たないのも事実です。

閉ざされた、固定化した集団を、風通しがよく流動性が高い集団として常に維持できるような仕組みが必要となります。

人間関係の淀みをもたらさず、常に新鮮な空気を吹き込むことで、いじめという人間の心の黒い澱を常時掃き出すのです。

難しいことですが、不可能だとは思いません。

一人のための集団の考えに立って

いじめによる痛ましい自殺が起こってしまっていつも感じることは、すべて手の打ち方が後手後手になるということです。

いくら教育委員会が、「いじめがあった」と認めたとしても、後の祭。

命を絶った生徒たちは二度と帰ってくることはありません。

人の命と、集団の在り方を変化させ続けていくことと、どちらに重みがあるでしょうか。

効率優先主義が招く集団のゆがみを是正し、集団のための一人ではなく、一人のための集団という考えに立つことができれば、いじめはなくなります。

仮に集団が挙げるべき成果が低いものにとどまったとしても、それはやるべきです。

私はそう信じてやみません。

いじめについては昨年の12月にも一度記事にしています。

そちらも合わせてお読みいただけると幸いです。

「いじり」を「いじめ」へと変質させる集団心理という魔力

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