父譲りの温和な性格にもかかわらず、なぜ特定の行為にのみ沸点が低いのかを客観視してみる

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原初的な怒りの感情

先日、友人のブログDeep Inside「最近どうも沸点が低くて」を読んで、思うところありましたので、少々自分なりの考えを述べてみたいと思います。

沸点が低い、つまり怒りの感情が沸いてしまった時に重要なポイントとして、友人は「状況を客観視するスキル」を身につけることと指摘していました。

大事なことだと思います。

怒りの感情とはとかく、視野や境界が狭くなってしまい、つまりは自身を客観視することを難しくします。

怒りが収まってしまえば、「どうしてあんなに腹が立ったんだろう」と思えることも、怒りに支配された心の状況は、完全に我を失い、周囲さえ見えなくなってしまいますから。

私は心理学者でも、脳科学者でもないので、あまりいい加減なことを言ってもいけないとは思いますが、怒りという感情は、脳の奥深く、つまり原始的な人間のころから有しているものであるがゆえに、本然的なものだと。

その怒りのコントロールをする力は、人間が生きていく上で、経験や学習を積んで長い長い時間をかけて積み上げたものなのだろうと。

ゆえに、人間の本然的な、原初的な感情であるがゆえに、一度噴き出してしまった怒りの感情を鎮めるのは、それなりに難しいことなのだと思えるのですね。

好々爺の域に達している

そんな怒りの感情の私なりの定義をしたところで、さて自分にとっての沸点はどこにあるのかを客観視して見てみたいと思います。

私は父親譲りの温和で穏やかな性格の持ち主であると基本的に自認しており、他人からもそれなりにそう思われているようです。

人前で、怒りの感情を爆発させたり、怒りに任せて声を荒らげるようなことは、たぶんこれまでの生涯の中で一度もないと思います。

その意味では、50代中盤にして、好々爺の域に達していると言っても過言ではないでしょう。

ところがです。

こんな好々爺予備軍の私でも、怒りに火が付くことがあることが、客観視のスキルを駆使することで気づきました。

私が怒る対象は、極めてピンポイントです。

一つは歩きスマホ、もう一つはエスカレーターの駆け上がり(歩きを含む)です。

人間性の喪失の兆候

なぜ、この二つの行為を心から憎むのか、自分でも実はよくわかっていません。

好々爺がなぜ、この二つだけは許せないのか。

さらに自身の心の深部を探ってみるに、一つの答えを導き出すことができました。

歩きスマホとエスカレーターの駆け上がりに共通しているのは、人間性の喪失の兆候だと感じるからです。

歩きスマホをしている人もエスカレーターの駆け上がりも、人間性を喪失しているなんていう傲慢な物言いは絶対できません。

ありえません。

ただ、その兆候を示しているのであり、ワナに落ちかかっていることだけは恐れとしてあるのだということは言っておきましょう。

人間性喪失の落とし穴に落ちかかっているとも言える。

特に結論はなし

以前にも引用しましたが、私が尊敬する夏目漱石先生が、未来の歩きスマホを批判するようなことを述べています。

「そうなると本人のためには結構であるが、他人すなわち同方向に進んで行かない人にはずいぶん妨害になる事があります。 妨害になると云う事を知っていれば改良もするだろうが、自己の世界が狭くて、この狭い世界以外に住む人のある事を認識しない原因から起るとすれば、どうする事もできません。」(夏目漱石「文芸の哲学的基礎」より)

この一文の冒頭に「歩きスマホをする人間は」または「エスカレーターを駆けあがる人間は」をつけても違和感は全くありません。

ここには人間性の喪失への警鐘という言葉はないものの、漱石はおそらく、視野が狭く、他者のことを認識しようとしない人間に対する嘆きが含まれていることは確かでしょう。

スマホに依存し人間性を吸い取られ、エスカレータを駆け上がらなければならないという強迫観念にとらわれて生きることに対する怒りこそ、私の感情の奥底にあるものと今回認識できたように思います。

だからといって、特に結論はありません。

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